「海には行けないの」
2 コンブ
いつも通り、波野さんが「裏しょうが焼き定食」を注文した。
「暇ねぇ、今日は」
「もう昼時を過ぎましたからね。飲み物は、何にします?」
「麦茶でいいわ」
「かしこまりました」
波野さんは、週に3回は店に来る常連客である。
波野さんに会えた日は、バイトの疲れも吹っ飛ぶほど、俺は相当に波野さんを気に入っている。
いや、むしろ、もはや、言ってしまうと好きである。
好きであるから波野さんのために、店の主人のマキガイさんには内緒で「裏しょうが焼き定食」を出すのである。
「裏しょうが焼き定食」とは、波野さんの「付いていたらいいのに、生卵」という言葉から、俺が無理矢理に作ったメニューである。
要するに、生卵付きのしょうが焼き定食だ。
波野さんのために考案したものであるから、他の客には出さない。
というか、他の客は知らない。
なので、俺がフリーターを辞めてこの定食屋を卒業したら、波野さんは非常に悲しむであろう。
そういう訳で、俺は慎ましくフリーター家業を営んでいるのだ。
「裏しょうが焼き定食」をテーブルへ運ぶと、波野さんは「いつも無理言ってごめんね、コンブくん」と言うので、俺は「気にしないでください。全ての物には裏があるのですから、しょうが焼き定食にも裏があっても良いでしょう」と答える。
すると「そうね、確かに」と波野さんは微笑んだ。
俺はもう、それが見れただけで幸せだった。
今すぐバイトなんて辞めちゃって、波野さんとデートに行きたい。
そうだな。
海に行きたい。
海に。
暑いから。
‥‥もう、この際、誘ってしまおうか。
軽い冗談混じりで言ってみるならいいかもしれないな。
よし!
俺は、お茶を注ぎに行くついでを装って話しかける。
「ところで、波野さんはこの夏、どこかに出掛けるんですか?」
「どうかしら。でも、週3回は来る予定ね、ここには」
「いつも、ありがとうございます!」
「おいしいんだもの」
「海とかは行かないんですか?夏ですし。もし良かったら、行きましょうよ!…なんてね」
俺がそう言った時、店の掛け時計がゴーンと鳴った。
15時だ。
「海には行けないの、私」
「え?」
俺は思わず聞き返した。
「行けないって、どうしてまた?」
「‥‥」
波野さんは黙っていた。
掛け時計の音の余韻のせいで、店内がとても静かになったように思えた。
しかし、随分と意味深な言い方をするもんだ。
どういうことだ?
まさか、何かの病を患っているとかか?
そうだな。
そうかもしれない!
全ての物には裏があるのだから。
悩む俺の表情から何かを読み取ったのか、波野さんは「あ、ビョーキとか、そういうのじゃないわよ?」と言った。
「え、では、何でまた?」
「コンブくん、女の子にはあまり多くを聞くものじゃないわ」
そう言って彼女はしょうが焼きに、といた卵を付けて食べた。
俺は「何で?」と言った。
心の中で。
俺は一旦、厨房に引き下がった。
不思議である。
なぜ、波野さんは海に行けないのだ?
病でもないということは、嫌な思い出でもあるのだろうか。
昔の彼氏とかとの思い出が‥‥。
やはり何かあるのかもしれない。
そう、全ての物には裏があるのだから!
そんなことを考えていると、波野さんが「ごちそうさま」と言った。
お会計である。
このままでは、海に行けない理由が分からずに終わってしまう。
さすがに、次回に話の続きを回すのはやりにくい。
勇気を出して聞いてみるか。
「ありがとうございました。ところで、さっきの話ですけど、海には一度も行ったことないんですか?」
「いいえ、あるわよ。海は好きだもの」
「え、じゃあ、さっき海には行けないって言ったのは、もしかして、僕が誘ったからですか?」
俺は笑って誤魔化す。
「まさか、違うわよ」
「では、なんでまた?」
「コンブくん、しつこい男は嫌われるって聞いたことない?」
俺は慌てて謝った。
「す、すみません、調子乗りました!はい、これ、お釣りです」
「良いのよ。嫌いじゃないもの、コンブくんはいつもよくしてくれるから」
波野さんは、そう言いながら、財布にお釣りをしまった。
どこのブランドの物か分からなかったが、綺麗な海の色をした財布であった。
その色に、なんだか俺は夏の終わりを感じた。
まだ、始まったばかりなのに。
しかし、その時であった。
俺より背の低い波野さんが上目遣いでこちらを見る。
そして小さい声で言うのだ。
「どーしても行きたいというのなら、行っても良いけど、海」
帰り際に告げられたその言葉に、俺はどきりとする。
「ただし、条件があるから、それをクリアしたらの話ね」
こうして、フリーターの俺にも夏が訪れた。
すべては「波野さんと海へ行く」という、裏メニューを楽しむために。
「海には行けないの」-2-
2013.8.13