「海には行けないの」

 

3 シジミ

俺は、「しおさい」という定食屋に向かう途中だった。
なんでも、そこには「裏しょうが焼き定食」というメニューがあるしい。
「生卵が付いてくるのよ、その定食には」
波野さんはパシフィック・オーで俺に言った。
「それでね、持ってきてくれないかしら?その卵を」
「それが条件?」
俺が聞くと、波野さんはフラッペツィーノAを飲みながら微笑んだ。
「簡単じゃん」
もっと、とんでもない条件を言われると思っていた俺は、心の中でそう思った。

 

善は急げだ。
早速、次の日の午後に出掛けた。
俺は、すでに波野さんと海へ行ったような気になっていた。
陽気に口笛を吹きながら歩いた。
「定食屋しおさい」は、駅近くの商店街の中に入っていて、何度も通りがかったことがあるので知っていた。
「しおさい」と書かれた暖簾が入り口に掛かっていて、建物は古い。
特に理由があるわけではないが、一度も入ったことはなかった。
波野さんが利用していることを知っていたら、毎食ここで食べていただろうに。

 

趣のある引き戸をがらがらと引いて、店内に入った。
昼時を過ぎた、テーブル席だけの店内は閑散としていた。
「いらっしゃいませ」
若い男が奥からやってきた。
身長が俺より高い。
180に近いな。
黒髪の短髪が似合っていた。
店の隅の席に案内された。
水とおしぼりとメニューが木目調の黒塗りテーブルに並べられる。
「注文決まりましたら、呼んでください」
メニューを見た俺はどきどきした。
無いじゃん。
どこにも無いじゃん。
「裏しょうが焼き定食」なんて。
もしかして、本当に裏メニュー的なあれなのか。
それって、俺みたいな一見さんにも出してくれるものなのか?
裏と表しかないメニューを何度もひっくり返していると、「何かお探しのものでもあります?」と長身の男が聞いてきた。
俺は、近付いてくるその気配に気付かなかったからびっくりして「うぁ!」と声を上げてしまった。
「あ、すみません、びっくりさせちゃいましたね。すみません」
「あ、いや、いいんです。すみません」
「こちらこそすみません…それで、何か探してるものでもありますか?」
こ、ここで言うべきだ。
知ったような感じで言えば大丈夫だろう。
とりあえず、言わなきゃ始まらない!
始まらないと、波野さんと海に行けない!
波野さんと海に行けないと、夏ではない!
だって、夏から海を取ったら「寝苦しい夜」しか残らないんだもの!
いくぞ!
「あー、あの、いつもの裏しょうが焼き定食で」
完璧だ。
完璧なまでに、しれっと言えた。
あとは、出てきた「裏しょうが焼き定食」に付いている卵を持ち出すだけだ。
安心して、メニューを閉じる。
ふと、横を見ると、男がまだそこに立ってる。
何だ?
聞こえなかったのか?
俺は語気を強めてもう一度、言った。
「いつもの、裏しょうが焼き定食お願いします」
すると、男は怖い顔で俺を見下ろしながら、「‥‥いつもの、だと?」と言った。
俺はひとまず、何も聞こえなかった振りをして、水を飲んだ。
こういうときは、水を飲むに限る。
だって、落ち着くだろ?
多分。

 

 

「海には行けないの」-3-
2013.8.14


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海には行けないの 3