「海には行けないの」

 

15 ホタテ

夏は陽が長い。
つまり、夕方も暑いということだ。
挙げ句、手に持っているのは、温くなったホットコーヒーだ。
アイスコーヒーにしなかったことを後悔する。
でも、そもそも『でくのぼう漂流記 第5巻』が無かったのが事の始まりだ。
店内でゆっくりと本を読むには、ホットコーヒーの方が良い。
アイスコーヒーでは、氷が溶けて味が薄くなるけれど、ホットコーヒーは冷めるだけだ。
だから、ホットコーヒーを注文したのに、肝心の『でくのぼう漂流記 第5巻』がないじゃないか。
他にすることのない僕は、パシフィック・オーを出るしかない。
しかし、気になるな。
第4巻の終わりは、主人公である「でくのぼう」が、最後の島と言われている緑島に辿り着いて、その島に昔から住んでいる部族の部族長(つまり部長)であるハゲチャ・ビンに洗礼を受けるところで終わってしまった。
そのあと、でくのぼうがどうなるのか、非常に気になる。
気になるけど、無くなっては仕方がない。
青空文庫は持ち出し自由だ。
諦めるしかない。
または、古本屋で立ち読みするれば良い。
でも、古本屋では、波野さんとの秘密の逢瀬に精神が集中しているから無理だ。
ゆっくりと内容に集中できるとは思えない。
あぁ。
残念で仕方がない。
それにしても、暑い。
夕方だと言うのに、本当に暑い。

 

「八幡さんのところにいるのよ、夕方は大体」
波野さんはそう言った。
出会った頃に言っていた言葉だ。
「好きなのよ 。夕方に、夜の黒と昼の青さが混じって、夕焼けの赤になって、群青になるでしょう?好きなの、それが」
八幡さんとは、商店街から少し裏に入った所にある神社だ。
別に、夏祭りをやったり、派手な催し事をする神社ではないが、昔からそこにあるそうだ。
その神社で夕方を過ごすのが、波野さんは好きだと言う。
本当かどうか分からない。
でも、僕の足はその八幡さまに向かっている。
今は、ほぼ18時になりそうな頃合いだ。
夏でなければ、暗い。

居るだろうか。
波野さんは。

僕は温くなったコーヒーを時折飲んでは、その苦さを噛み締める。
その反対の手にはトラネコ皿を持つ。
とりあえず、僕の足は止まらない。
八幡さまへ向かう。
もし、波野さんがそこに居れば、トラネコ皿を渡して、海へ行ける。
それは喜ばしい事じゃないか。
二人で楽しく海を満喫。
バナナボートなんかに乗っちゃったりする。
そして、なぜか遭難。
理由は置いておこう。
流されたとか何かだ。
それで、「乾いたの、喉が」と言う波野さんのために海水を汲み上げて、着ていたTシャツで何度も濾すけれど、塩水には変わりなく、絶望。
「でも、ほら、ご覧!」
あそこに島がある!
上陸して助けを待とう!
そんな感じで上陸してみれば、すぐさま先住民に捕まる始末。
でも、そこの部族長(部長)は、ハゲチャ・ビンで、『でくのぼう漂流記』を読んでいた僕は、なんとなく親しみを沸かせて強気の姿勢。
それで、「え?お前、知ってんの?でくのぼうちゃん」となり、和解。
でくのぼうから無線機を譲り受けていたハゲチャ・ビンは無線を飛ばしてくれるおもてなし。
僕と波野さんは無事に本土へ帰還するのであった。

 

そんな妄想をしていると、もうすぐ八幡さまであった。
波野さんはいるであろうか。
居た暁には、海へ行ける。
まずはそこからだ。
でも、八幡さまに波野さんが居て、俺が無事にトラネコ皿を渡せた時点で‥‥。

「それはもう、本当に小説じみている」
俺は小声でそう呟きながら歩を進めた。

 

 

「海には行けないの」-15-
2013.8.26

海には行けないの 15