「海には行けないの」

 

17 シジミ

「夕焼けが好きなのよ。だから私、夜働いているの」
そう言った波野さんに俺は尋ねた。
「なんでそれで、夜働くことになるんだい?」
「やる気がでるじゃない?好きな夕焼けを見ながら出勤すると」
「なるほど」
そんな会話を思い出した。
そろそろ夕焼けの時間だ。

 

トラネコ皿を持った男は、空を見上げたりしながら、商店街の喧騒から離れた路地を進んでいく。
このまま行くと八幡さまに続くな。
まさか、トラネコ皿を八幡さまに奉納する気か!?
でも何で?
そんなことしても神様は喜ばない。
この商店街に伝わる伝説の皿ではあるけど、神様が喜ぶような代物ではないだろう。
それにしても‥‥。
それにしても、何だか飽きてきたな。
俺は、波野さんを探さなければならないから、こんなことをしている場合じゃない。
生卵が腐ってしまう。
もう、止めようかな。
引き返して、商店街を練り歩いていた方が波野さんに会う確率は高いと思う。
八幡さまが近づいてきた。
「戻るか」
そう呟いた時だ。
トラネコ皿を持った男が突然小走りになった。
え?何?何だよ突然!
波野さんを探したい気持ちは山々だったけど、走る相手を目の前にしたら、追いかけずにはいられなかった。
理由は無い。
ほとんど条件反射に近かった。
男はずんずんと八幡さまの方へ行き、やがて、八幡さまに入っていった。
そんなに広い場所ではない。
すぐに境内が見えてくる。
今さらだけど、腰に付けたマイツムリ号の鍵がジャラジャラと煩いことに気付いて手で押さえる。
そのとき、ふと鍵を見て思う。
ていうか、これもういらないんじゃない?
盗まれちゃったわけだし。
いや、ダメだ。
もはやこの鍵の束は俺のトレードマークだ。
俺からこの鍵を取ったら、何が残ると思う?
取り損ねた大学の単位しか残らない!

 

そんなことを思っていると、男は走るスピードを落として、やがて歩いた。
その先に目をやって驚いた。
嘘だろ?
波野さんが立っていた。
境内の正面よりも左側にいる。
夕焼けの方を見ている。
男はそこに向かって歩く。
え?何?
あのトラネコ皿を持った男は、波野さんと知り合いだってこと?
それで?
ここで会ってどうすんの?
この、他に誰もいない、夕焼けが彩る、静かな境内で会ってどうすんの?
男と女が会ってどうすんの?
…。
俺は良からぬ想像をした。
いやいやいやいやいやいやいやいや。
波野さんと海行くのは、俺だし。
間違いないし!
約束したし!
「しおさい」の生卵だって、持ってきたし!
調子乗んなし!
まさか、あの野郎。
この商店街からトラネコ皿だけじゃく、波野さんまでも盗む気か?
そんなことしたら、いよいよこの商店街には何も残らない!
ふざけてる。
そんな世紀の大泥棒みたいな真似はさせねぇ!
俺は決心した。
大きく息を吸い込んで、叫ぶ。
「波野さん!!!!」
「波ちゃん!!!!」
「波野さん!!!!」
え?
何か、後ろから、俺以外の声も聞こえましたが…?

 

 

「海には行けないの」-17-
2013.8.28

海には行けないの 17