『頭上のライク』
8
僕はもう慣れ始めていた。
あのおっさんに会ってから、つまり、人の頭上の数字が見えるようになってから一週間が過ぎていた。
毎日、どんな時にも常に見えている頭上の数字。
僕は次第に気にしなくなっていた。
他人の頭上の数字の変動にも、自分の頭上の数字の変動にも一喜一憂しなくなった。
あまりにも上がっていたり、可哀想なくらい下がっていたりすると「あれ、あんなに変わってるわ」と気になるくらいだった。
僕は、通勤中も仕事中もプライベートも普通に過ごせるようになっていた。
だけど、今日ばかりは気になった。
気になって気になって仕方なかった。
他人の数字も自分の数字も、どちらも気になった。
今日、僕の彼女が高校の同窓会に行くからだ。
通勤中に同年代くらいの男を見付けては、「あいつはもしかしたら今日の同窓会に来るやつかもしれない」などと思ってしまい、そいつの頭上の数字を確認する。
それが大した数字でなければ良いのだが、500を越える数字を持ち、腕には高級な時計、顔は甘いマスクであったりすると、もう不安になって仕方がない。
彼女が世間の良い男を見て、頭上の数字が平均より低い僕に愛想を尽かしてしまうことが、不安だった。
会社に着くと、いつも通り、コピー機の前にいるハナオカさんに「おはようございます」と言う。
彼女はこちらを見て、「あ、おはよう。良い色のジャケットね」と言う。
だがしかし、「チャリーン」という音は鳴らない。
つまり、彼女の褒め言葉は本気ではない。
だから、僕の頭上の数字は変わらないのだ。
そこへ、やって来る。
アイツがやって来る。
僕の同期のアイツだ。
あの合コンで減ってしまった同期の頭上の数字は少しばかり回復し、106まで増えていた。
「おはようございます!ハナオカさん」と鼻の下を伸ばして言う。
それに対してハナオカさんは、「あ、おはよう!今日のジャケット、いいね!」と素敵に微笑む。
そして、「チャリーン」の音だ。
僕はもう、うんざりしている。
うんざりしているが、同期の頭上を確認せずにはいられない。
107になっている。
なんでだ!?
同じジャケットを褒められたのに、何で僕に対しての「チャリーン」が無いんだ!!
僕は憤る。
だから、「お!おはようさん!」と言う同期の挨拶には素っ気なく「ん」と言うだけに留め、早々と自分のデスクに向かった。
なぜだ。
なぜなんだ。
なぜ、ハナオカさんはアイツばかり心から褒めているんだ。
僕はそういう疑問を自分に投げ掛けながらも、答えを知っていた。
だけど、それを認めるわけにはいかない。
だって、その答えを認めてしまうと、僕の自尊心はコテンパだ。
そう、認めるわけにはいかない。
ハナオカさんは僕のことが嫌いなんだと、認めるわけにはいかない。
ハナオカさんの事と、僕の彼女の同窓会の事のせいで、全然仕事に集中できずに、昼を迎えた。
ランチに行く同僚たちは席を立つ。
フロアから大半の人が消える。
「おーい、飯、どうする?」と同期のアイツが言ってくる。
僕は「今日はちょっと仕事溜まってるから、もう少しやってから行くわ」と嘘を吐いた。
「そうか。じゃあ、行ってくるわ」と同期はフロアから出ていった。
僕は、集中できなかったせいで、本当に終わっていない仕事を少しだけやった。
それが終わると、ぐーっと身体を伸ばしながらフロア全体を見回す。
当然、ハナオカさんもいない。
何を食べに行ったんだろ。
そんなことを思う。
その時、ふと、課長の姿が目に入る。
いつも通り、愛妻弁当を食べているようだ。
それだけなら良かったが、僕は課長から目が離せなくなる。
確か、以前にも見た光景だけど、課長の頭上の数字がものすごい勢いで下がっていっている。
ダダダダダダダ。
そんな音が聴こえてきそうな勢いで数字は下がり、三桁あったそれは瞬く間に二桁になり、やがて一桁になった。
6でそれは止まった。
それからは、これまた以前のようにゆっくり数字が上がっていく。
どういうことだかさっぱり分からないけれど、僕が知っている頭上の数字の原理で考えるのならば、あの短時間で猛烈に貶されたのだろう。
だからすごい勢いで数字が下がったのだ。
そして、課長は決して悪いやつじゃないから、またすいすいと数字が上がっていくのだろう。
ここで怖いのは、猛烈に課長を貶しているヤツがいるという事実だ。
僕は恐ろしくなった。
恐ろしくなって、なんとなくフロアを見回した。
いつも通りの、僕が通うオフィスだ。
その次に今度は自分の数字が気になった。
僕も誰かに猛烈に貶されてはいないだろうか。
僕は小さい手鏡を出して頭上の数字を見る。
203。
いつも通りである。
僕は胸を撫で下ろした。
また課長の様子を見る。
すごいもので数字は、三桁に戻っていた。
すごいなぁ。
あんなに褒めてくれる人がいるんだもの。
僕の同期のアイツなんて、一週間経っても回復できないというのに。
しかし、何事にも油断は禁物だ。
また、課長の頭上であの恐ろしい現象が始まったのだ。
ダダダダダダダダ。
そう聴こえそうな勢いで、課長の頭上の数字は下がっていく。
僕はもう本当に怖くなって、席を立った。
課長に背を向けてフロアから出る。
一体、誰があんなに貶しているんだ。
あんなに一気に人の事を貶せる存在はもう悪魔しかいない…。
会社の休憩スペースでコーヒーを飲んで、落ち着こうとしていた。
人が持つ形のない悪意を見てしまったせいで、なんだかどきどきしていた。
しかし、そんなものはすぐに忘れる。
そこに、ハナオカさんがやってきたからだ。
お昼が終わって飲み物でも買いに来たのだろう。
僕は「お疲れさまです」と挨拶をする。
「お疲れさま。コーヒー?」
ハナオカさんは素敵な笑顔で言う。
「そうです」と僕は答えるが、そのあと何も気の利いた事が言えなかった。
せっかく二人きりなのに。
やり場のない目線をウロウロさせた挙げ句、自販機で飲み物を買うハナオカさんの頭上の数字を見ていた。
270。
合コン終わりより少し下がっていた。
やはり、オンナノセカイの影響なのだろうか。
僕はそんなことを思ってぼーっとしていたわけだけど、ハナオカさんが不意にこちらへ振り向いた。
まるで僕がずっとハナオカさんを見ていたような感じで目線が合う。
いや、確かに見ていたんだけど、それはハナオカさんの姿そのものではなく、頭上に浮かぶ数字だ。
数字を見ていたのだ。
なんていう言い訳は当然できないから、僕は何も言わずふっと目線をそらす。
気まずい。
コーヒーを飲む。
一気に飲み干して早く立ち去ろう。
だけど、そうはいかなかった。
ハナオカさんが口を開いたからだ。
「あ、あのさ…」
僕は口にコーヒーが入っているから、目で「なんですか?」と聞いてみる。
「今日の夜、暇だったら、お酒、付き合ってくれない?」
その言葉のせいで、コーヒーを上手く飲み込むことができなかった僕は、激しくむせた。
つづく
『頭上のライク』-8-
2014.7.15