「さ」から始まる短いものがたり

 

桜色のお茶碗を洗いながら、食後の会話を楽しんでいた。
「今日は、何処へ出掛けていたの?」
私の問いに、弟は「今日もまた、世界規模のワガママを受け入れていたのさ」と、よく分からないことを言っていたけれど、「優しいのね」と相づちを打つ。
食卓でお茶を飲む弟の右手は、忙しなく携帯電話を操作している。
その尋常じゃないスピードに、私はいつも見とれてしまう。

食器を片付けた後、家計簿を付けようと、財布を探していると、財布が見当たらないことに気付いた。
「財布、知らない?」と弟に聞くけど、知らないようだ。
買い物の時以来、財布は使っていない。
記憶を辿っていると、ピーマンをくれと言ってきた変な男の事を思い出す。
まさか、彼に財布をスられたのだろうか。
そのことを弟に話した。
姉弟間で隠し事はしないと決めている。
弟は「そいつは、やばいよ。」と言いながら、益々右手の動きを早める。
私は、その動きから目が離せなくなる。
スポーツでも観ているような感覚に陥る。
長い攻防が続いているんだわ。
テニスで言う、シーソーゲームね。
高校時代のテニス部の思い出が甦る。
ついでに、淡い恋のことも思い出す。
他校に試合に出向いた時、男子テニス部の1人にとても惹かれた。
名前こそ分からなかったけど、彼は変わり者だという噂を聞いた。
なんでも、踊るのが好きすぎて、部屋にミラーボールがあるとか。
確かに彼のプレーは踊るようなそれだった。
懐かしいな。
今、彼は何をしているんだろうか。

はたと、弟の右手の動きが止まった。
弟の目をみる。
目と目が合う。
思わず、聞いてしまう。
「今のはどっちが勝ったの?」
そして、あ、何でもない。と誤魔化した。
間を開けずに、財布を落としてる可能性もあるから、スーパーまでの道のりを一緒に辿って欲しいと、お願いをした。
弟は、承諾してくれた。
「やっぱり、優しいのね」と言った後に、その優しさを他の誰かも受けていると思うと、少し切なかった。

夏にしては、星がきれいに見えた。
冬の星空はよく見上げるけど、夏は見上げなくなる。
きっと、オリオン座が無くて、見上げても分かる星座がないから。
知っているモノが、ふとした時にそこに無いというのは、寂しい。
隣にいる弟は、珍しくケータイを操作していない。
地面を見て、財布を探してくれているようだった。
どうか、もうしばらく、ここにいて欲しいと、私よりも背の高い弟を見て思う。

時間を惜しむようにゆっくりと、スーパーまでの道を辿った。

 

 

「」から始まる短いものがたり
2012.6.25


 


「」から始まる短いものがたり9