「僕の町」

 

15

僕はいつもの時間に町のパトロールに出掛けた。
お気に入りのリュックにいつもと同じ荷物を詰めて、兄からもらったお気に入りの革靴を履いた。
家のドアから出たとき、春の匂いがした。
まだ寒いけれど、それは春の匂いだった。
君は春が好きかい?
好きだとしたら今度、春の話をしようよ、君。
僕はさくらが好きなんだ。

 

いつも行くコンビニでいつもと同じパンと野菜ジュースを買った。
顔馴染みのおばちゃんが「なんだかもう春ねぇ。はい、オマケ」と言って、一口チョコをくれた。
僕は丁寧にお辞儀をした。
もう子どもじゃないから、それくらいしなきゃダメだろう、君。

 

いつもの公園でパンと野菜ジュースを胃袋に納めた。
公園にも春の匂いが漂っていた。
僕は嬉しくなった。
そのあと、サボりがちな電柱の傾きを直しに行った。
電柱から走る電線を見上げると鳥が2羽止まっていた。
僕はいつものように鳥に聞いた。
君ももう覚えたろう?
「今日はどれくらい傾いた?」だよ、君。
すると鳥は「今日は傾いてないよ。もうサボるのを止めたのかもしれないね」
僕は驚いた。
「本当かい?」
鳥に尋ねると「信じてやらなきゃダメだろう。せっかく、サボらなかったんだから」と言った。
鳥はもっともなことを言うもんだね、君。
僕はいつも通りに電柱を押す代わりに、「偉いぞ!」と撫でてやった。
その時、「もうここにいる必要はないなぁ。サボらない電柱に止まっていてもちっとも面白くない!僕らは他へ行くよ」と言って鳥たちは飛び立った。
僕は2羽の鳥を見送ってからショッピングセンターに向かった。

 

電柱の傾きを直す時間が省けたから、いつもの時間より早くショッピングセンターに着いた。
少し前の僕なら、とても不安になっていただろう。
時間は早すぎても遅すぎてもダメだったんだ。
ピッタリじゃなければ。
でも、今の僕は少しくらい時間がずれても我慢できるようになった。
僕は我慢するのが好きじゃないけれど、それを我慢できるようになったんだよ、君。
少しだけどね。

僕はいつも通り、ショッピングセンターの消火栓に「寂しがり屋はいるかい?」と聞いて回った。
何個目かの消火栓が「外のベンチに一名発見!大至急現場に急行!!」と声を上げた。
僕は急いで外に設置されたベンチに向かった。
そこに居たのは、ユリタニさんだった。
ユリタニさんは僕がバタバタと走ってきたから、音を聞いて顔を上げた。
そして、微笑む。
この笑顔が見せられないのが残念だよ、君。
「早いね。どうしたの?」
彼女は不思議そうにそう言った。
喋ることができたのなら電柱のことは黙っておいて、「君に会いたくて、すっ飛んできたのさ」と言いたかった。
彼女と時を過ごす度に、「喋りたい」と思うことが増えたんだよ、君。

 

ユリタニさんと過ごす時間はあっという間に過ぎる。
僕はLuLuに行かなければならない時間になった。
「今日、あたし休みだから夜遊びに行っていい?」
僕は大きく頷いた。
君は知らないだろうから、教えてあげるね。
僕らはとても親しくなったんだよ、君。
「じゃあ、頑張ってね」
ユリタニさんに見送られて、僕は一度家に帰った。
それから僕は、いつも通りの時間の電車に乗ってLuLuに向かった。
電車に乗っている時間は、『グレート・ギャツビー』を読んでいるとあっという間だ。
駅の改札を出たところで兄に電話を掛けた。
「駅着いたのかな?気を付けて」
僕は黙って電話を切る。
いつも通りのやりとりだよ、君。

 

LuLuに着くと僕は着替えた。
その時、兄が更衣室にやってきて「一人暮らし大丈夫か?」と聞いてきた。
僕はうんうんと大きく頷いた。
「そうか。今日の夜、遊びに行っていい?」
僕は着替える手を止めて、勢いよく首を横に振った。
「何で?あ、まさかユリタニさんでも呼んでいるの?」
兄はとても意地悪な顔で笑っている。
僕はもう兄を無視することにして、着替えた。
兄は「喋れないくせに、分かりやすいヤツめ」と笑いながら更衣室から出ていった。
そうそう。
君は知らないだろうから、教えてあげるね。
兄は1週間前からサキタさんと住んでいる。
僕はぐるぐるキャンディーに取り憑かれたママの家に行くわけにいかないから、兄が協力してくれて一人暮らしをしているんだよ、君。
たいへんだけど、楽しい。

 

僕はワインの確認をするためにワインセラーに行った。
温度計に「誰が大人になった?」と聞く。
温度計は「うーん。難しいね。でも、そうだね。一人しかいないな。君だよ。」と言った。
「僕!?」
僕は驚いた。
驚いたけれど、嬉しかった。
僕は嬉しかったんだよ、君。
だけど、僕がワインセラーを出ていこうとしたとき、温度計は言った。
「大人になったら、すぐに飲まれちまうから気を付けな」
僕はその言葉を忘れないようにしようと思った。

 

ねぇ、君。
僕は喋れる君とは違う。
でも考えなくてはならないことは、喋れる君と同じくらいあるんだよ。
例えば、
電柱のこと。
ショッピングセンターの寂しがり屋のこと。
僕が休んでいる間、大人になっていくLuLuのワインのこと。
ぐるぐるキャンディーに取り憑かれたママのこと。
結婚した兄とサキタさんのこと。
一人暮らしを始めた僕のこと。
それから、大切にしたいユリタニさんのこと。
どうだい?
君にだって負けないくらい、たくさんのことを考えなくてはならないだろう?
そう思ってくれるなら、僕たちはやっぱり親友になれるね。

 

僕が家に帰ると、ユリタニさんは居間でワインの本を読んでいた。
何で、ユリタニさんが僕の家に入れるかって?
何かあったときのために、兄が合鍵を渡しているからだよ君。
でも、驚くところはそこじゃない。
それをユリタニさんが受け取ってくれたんだよ。
どこかおかしい僕なんかが住む家の合鍵を受け取ってくれたんだ。
僕はその日、嬉しくて、兄と二人きりのとき少し泣いたんだよ、君。

彼女は「おかえり」と言った。
それから嬉しそうに「お土産があるの」と言って、台所に行った。
台所から戻ってきた彼女は「ほら、おいしそうでしょ?」と言った。
彼女の手には林檎が乗っていた。
僕が「本当においしそうだ」と言うようにうんうんと頷くと、彼女は一度笑って「今から剥くね」とまた台所へ戻った。
僕はそんな彼女が愛しくて笑った。
僕は彼女のためにも、この町を守りたい。
兄とサキタさんも住むこの町を。
ぐるぐるキャンディーに取り憑かれたママが住むこの町を。
僕は守りたい。
だから、明日からまたパトロールを入念にやろうと思ったんだよ、君。

 

ねぇ、君。
喋れる君には答えが分かっているかもしれない。
だから思い切って聞くけれど、生きるっていうのはこういうことなのかな?
ユリタニさんが買ってきたその林檎がとても赤かったように。
そういうことなのかな、君。

 

 

おわり

「僕の町」  -15-  2013.2.4


バスライトツガル(赤りんご)

僕の町 15
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