河童の話

 

朝起きたら、友人のフレッドがいなかった。
昨晩は僕の家で遅くまで酒を飲んでいた。
僕はいつの間にか寝てしまったらしい。フレッドは僕が寝ている間に帰ったのかもしれないな。
よくあることだから特に気にせずに顔を洗った。
それから、ドアポストをチェックして今日の味噌を取った。
ビニールに「甘辛」というステッカーが貼ってある。今日は川の流れが少々速いらしい。気を付けて流れなきゃ。
毎朝届く味噌は、新聞のようなもので味によって川の状況が分かるようになっている。
誰が配っているのかは知らないけれど、気付けばポストに入っている。
誰も配達する人の姿を見たことがないことから、河童界隈では、河童七不思議の一つだと言われている。
でも、誰が配っていようが、とにかく味噌は大事なのだ。
その日の川の状況は僕たちの命に関わるのだから。
天気予報なんかとは訳が違う。
天気予報がはずれたって、滅多に命に関わるようなことにはならないだろう?
届いた味噌で朝ごはんを食べるために冷蔵庫を開けた。
キュウリを取り出そうしたのだ。
しかし、そこにはフレッドが入っていた。
フレッドは帰ったんじゃなくて、僕の家の冷蔵庫にいたのだ。
驚いた。
そして、焦った。
「おはよう。ちょっと、冷蔵庫を借りているよ」
「う、うん。それは構わないけど、もう川に行く時間だよ?」
「あぁ、今日はちょっと無理そうだよ。外がやたら暑く感じるんだ」
「そんなに暑くないよ?行こうよ。ほら、冷蔵庫から出て」
「いや、どうにもダメだ。ここからは出られそうにない。こうしている間にも暑くなってきたよ。ちょっと扉を閉めてくれないか?」
フレッドが息苦しそうに言うので、「分かった」と言って扉を閉めた。
僕はそのままフレッドが入っている冷蔵庫を見ながら立ち尽くした。
しばらくそのままでいたけれど、こうなってしまったら僕に出来ることはないだろう。
一先ず川に行こう。
その方が気がまぎれる。
僕は冷蔵庫の前に立って大きな声で「フレッド、川に行ってくるよ!」と、できるだけ明るい声で言った。
それに対する返事なのか、一度だけ冷蔵庫の扉から「ドコッ!」と音がした。
玄関を出て鍵を閉める。
僕は、何かから逃げるように川へ向かった。

天気は良くて、アパートを囲む塀に取り付けられている「コーポ川田」というプラスチック板が光っている。
「川」が付く名前のアパートには河童が住んでいる。
そして「河」の付くアパートにはフグの連中が住んでいる。
だから「河」の付く建物が、白い割烹着に身を包んだ料亭の連中に囲まれているのをたまに見掛ける。
フグの連中の事はあまり知らないけれど、気の毒だと思う。
それと同時に僕たちは幸せだと感じる。フグほどに狙われることはない。
もちろん、狙われる時もあるけれど。

川の上流に着くと、すでにたくさんの河童が集まっていて、好きなタイミングで川に入っている。
川に入ったやつらは、ゆっくりと川の流れに流されていく。
お喋りをしながら流れていくやつもいるし、半分寝ながら流れていくやつもいる。
どこからか「今日の味噌甘かった割には、流れ早くないか?」と聞こえてくる。
多分そいつは味覚がおかしい。
僕がそう思った時に「は?甘辛かったろ?味覚がイカれてるよお前」と仲間の連中に言われていた。
味覚がおかしくなるのは、人間の食べ物をたくさん食べるからだ。
そしてそういう河童は近いうちに川に飲まれていなくなる。
味噌の味から流れが読めなくなってしまうことが、どれだけ危険か。
だから、人間の食べ物をやたらに食べてはいけない。
僕も川に入るために準備運動を始める。
水掻きはよく伸ばしておかないと破れてしまう時がある。
今日は川の流れが少々早いということもあり念入りに伸ばしていた。
不意に甲羅をノックされる。
僕は「入ってます」と答える。
別に冗談で言った訳じゃない。
入っているのは見て分かるのに、甲羅をノックされたらそう答えるのが河童の常。
これも河童七不思議の一つといわれている。
後ろを振り返ると、キャロルが立っていた。
よく知った顔に会えて安堵した。
「おはよう。今日、フレッドは一緒じゃないの?」
「一緒じゃないよ。どうしたんだろうね」
僕はフレッドが冷蔵庫に入っていることを誤魔化してしまった。
「珍しいわね。喧嘩でもした?」
「まさか。喧嘩なんてしないよ。その、今日はたまたま待ち合せなかったのさ」
「そうなの。じゃあ、フレッドに会ったらよろしくね!」
「うん。分かったよ」
僕は水掻きを伸ばしながら言った。
キャロルは満足したようで「じゃあね」と言うと、いつもつるんでいるグループに戻っていった。
その背中を見て、僕はキャロルにフレッドの事を言うべきだと思った。
でも、大きな声で呼びかける勇気が出なかった。
彼女が戻って行ったのは、賑やかなグループで、知っているやつもいるけれど苦手だった。
キャロルはフレッドと同じく小さい頃からの知り合いだから、フレッドの事を言うべきだった。

川に入ると、確かに少し流れが速い。
味噌のステッカー通りだ。
だけど、これくらいは全然大丈夫。
あとはとりあえず流れるだけ。
僕は目を閉じて、流れに身を任せた。
水の音が良い具合に耳を塞いでくれる。心地い。
少しまどろんで昨日フレッドと話した事がフラッシュバックしていた。
フレッド曰く、人間の世界には「河童の川流れ」という言葉があるという。
達人の失敗を表す言葉らしい。
「何故そうなったのかはよく分からないが、一つだけ言えるのは、河童はいつだって川においては流れているということだ。考えてみもみろよ。川というのは基本的に流れている。流れていなければ川じゃない。そしてその流れに逆らって泳ぐということがいかに大変か。俺たちはそんなに面倒なことをやる程、勤勉ではないし泳ぐのが好きなわけでもないだろ?そこを分かった上で俺たちの事を語って欲しいものだよな。そう思わないか?」
フレッドは少し呂律の回らない口調でそう言っていた。
確かに僕たち河童は、基本的にただ流れているだけなのである。
上流から下流まで、ただ流れるだけの毎日だ。
「退屈過ぎて鼻血が出そうになる」と言う連中もいる。
でも他にやることもないから、毎日、川の上流に行き、下流まで流れる。
そして家へ帰るのだ。
何のために流れているのかは、誰も知らない。
昔からそうなっている。
要するに、これも河童七不思議の一つなのだ。
どれくらい流れたろうか。
注意深く水面から顔を出してみる。
見慣れた景色だ。
くるりと辺りを見回す。
人影はなさそうだ。
まだ下流までは遠いけれど、朝ごはんを食べなかったから、お腹が空いてきた。もう少し流れると人が近寄らない中州にぶつかる。
そこには、クーラーボックスが用意されていて、キュウリが入ってる。
例のごとく、毎日誰が用意してくれているのかは分からないけれど、そのクーラーボックスのお陰で中州は、流れ疲れた河童の休憩場所となっている。
僕もいつもそこでフレッドとキュウリを齧っていた。
フレッドの事を考えてしまうと、気分が落ち込んだ。
とりあえずそこまで流れる事にして、もう一度水面に頭を埋めた。

中州に上がると、なんだか騒がしかった。
みんながクーラーボックスの周りに集まっている。
「可哀想に」という言葉が聞こえてくる。
僕はそれで騒ぎの内容を悟った。
「ミカエル!ミカエル!出て!お願いだから出てよ!」という鳴き声のあとに、誰かが「どうする?クーラーボックスから出すか?」と言っていた。
僕はその言葉を聞いて、食欲を無くしてしまった。
居たたまれなくて中州から川に飛び込んだ。

日が暮れたから川から出て、家帰ることにした。
歩きながら、冷蔵庫の中にいるフレッドの事を考えた。
ラーメンの出前でも取ろうか。
フレッドはラーメンがとても好きだ。
だけど、暑いのは食べないだろうから、冷やし中華みたいなヤツが良いか。
そうだな。
それが良い。
僕は少し足早になった。
そして、走った。

道すがら「河上荘」というアパートが割烹着姿の連中に囲まれていた。
フグのヤツらが狙われているんだろう。
僕はその横をするりと通り過ぎて家へと歩を進めた。
住んでいるコーポ川田には、アパートを囲む塀の内側にポストが備え付けてある。
僕はいつも家に入る前にそのポストを確認する。
今日もそうするつもりだったから、アパートの敷地に入るとポストの方へ向かった。
そして、そこで見つけた。
ポストの下の辺りに何かがうずくまっていたのだ。
なんだろうか。
震えているように見える。
恐る恐る「あの、」と声を掛けた。すると、それは「ヒャァッ!」と声を上げた。
つぶらな目が僕の方を見る。
フグだった。

「すみません。上がらせてもらって」とフグが申し訳なさそうに言った。
僕は震えていたフグを家に招き入れていた。
「気にしないで下さい。割烹着のヤツらから逃げてきたんでしょう?」
「そうなんです。家にいる時なら閉じこもっていればいいんですが、今日は丁度帰りの時間と被ってしまって・・・。鉢合わせでした」
「それは災難ですね。・・・あの、今から出前を取るんですが、もし良かったら何か食べます?」
「ヒャァッ!い、良いんですか?実は腹ペコで。な、何取るんですが?ラーメンですか!?ラーメン頼むんですか!?」
「え、ええ。ラーメンにしようかと・・・」
「じゃあ、カニ玉で!カニ玉とライスで!」
「カニ玉、あったかなぁ。とりあえず、注文してみますね」
僕は電話を掛けるために玄関玄関の方へ向かった。
ワンルームのこの家は、居間を出ると玄関と隣り合わせのキッチンがある。
電話を掛ける前に、ずっと気掛かりだった冷蔵庫の前に立った。
コンコンとノックをしてみる。
甲羅ではないから「入ってます」という声は聞こえてこない。
ゆっくりと冷蔵庫ののドアを開けた。
朝と同じ状態でフレッドが入っていた。
少し、小さくなったように見えた。
それを見て僕の心臓も小さくなった気がした。
「おや、もう夜かい?随分と時間が早く流れた気がするよ。ここは随分と居心地が良い」
「そうか・・・。これから出前を頼むけれど、冷やし中華で良いかい?」
「うん、そうだね。冷やし中華が食べたいな」
「分かった。また届いたら開けるね。・・・それとも、出れそうなら出て待つかい?」
「いや、この中が良い。外は暑くてたまらない。ありがとう」
フレッドの話し方がゆっくりになっていた。
冷蔵庫の冷たさにやられた訳ではないことを僕は知っている。
でも僕は余計なことを言わずに「オッケー」と明るく振る舞い、冷蔵庫のドアを閉めて電話を掛けた。

いつも頼んでいるラーメン屋だったけれど、カニ玉があったことに少し驚いた。
僕はあまり食欲が無かったけれど、フレッドと同じ冷やし中華を頼んだ。
いつも通り、代金を封筒に入れてドアに貼っておくからラーメンをドアの前に置いていって欲しいと伝えた。
至近距離で姿を見られるのは良くない。
河童は出前を頼む時、こういう手段を取る。

「カニ玉ありましたよ」と言いながら今に戻ると、フグは煙草に火を付けるところだった。
「煙草、吸うんですね」といいながら、灰皿がないので空き缶を渡す。
「サンキュ」とフグは言いながら煙草を吹かした。
一本勧められたけれど、僕は煙草を吸わないから断った。
最初よりも少し態度がでかくなっている気がしたが放っておいた。
「煙草くらい吸わなきゃ、やってられないでしょ」
「まぁ」
「・・・あんたらはいいよ。アパートに割烹着の連中も来ないだろ?俺たちは食べられちゃうんだぜ?信じらんねぇよ」
「でも、毒とか持ってるじゃないですか。僕たちはそんな武器みたいな物持ってないですし。いざという時は、」
「バカ野郎!毒なんて意味ねぇんだよ!」とフグは僕の言葉を遮って叫んだ。
「アイツらはなぁ、俺たちの毒の取り方を知ってんだよ!毒なんて無意味も良いところなんだよ!丸腰だよ!俺たちなんか丸腰なんだよ!ふざっけんな!」
「・・・すみません」
フグはそのあと黙ってしまい、気不味い空気になった。
フグが吸う煙草の煙だけが自由に部屋を舞った。
しばらく会話がないままでいると、玄関のドアがノックされた。
フグもノックに反応する。
僕はその転機に感謝して「出前が届いたみたいですね」と立ち上がった。
すぐにはラーメンを取りに行かない。
万が一にも鉢合わせないためだ。
ソーっとドアスコープを覗いた。
人の気配は無い。
念のため、十秒数えてからロックを外してドアを開けた。
すると、勢いよくドアが開かれ、何者かが入ってきた。
僕は思わず後ずさりする。
そいつは割烹着を着た男だった。
「失礼」とだけ言うと、家の中にずかずかと入っていった。
「は!?何でここにいんだよ!嘘だろ!おい河童!」とすごい勢いでフグが叫んでいる。
居間へ行くと、割烹着の男がフグを捕まえていた。
「痛ぇ!触んな!触んなよ!河童!てめぇ、ハメただろ!売ったのか!?畜生!」
「いや、ぼくは、」と何も知らないことを伝えようとした時だった。
割烹着の男が何処からか包丁を出して、フグに突き刺した。
「うっ!」という短い声と共にフグは何も言わなくなった。
割烹着の男は、また何処からか風呂敷を取り出してフグを包んだ。
さらにまた何処からか取り出した手拭いで、フグと争った時に散らかった煙草の灰などを拭き取り始めた。
全ての動きがとても手際良く、それらの作業はすぐに終わった。
呆然と眺めている僕を放置して、居間から出ると振り返り「お騒がせした」とだけ言うと出て行った。
残されたのは、フグの吸っていた煙草とライターだけで、綺麗さっぱりいつもの部屋だった。

とても食事をする気にはならなかったけれど、フレッドは冷やし中華を待っているかもしれない。
届いたラーメンを引き上げて、冷蔵庫をノックした。
ドアを開けてフレッドに冷やし中華が届いたことを伝えた。
フレッドはさっきよりもさらに小さくなったように思えた。
「なぁ、悪いけどよ、食べさせてくれねぇか?なんか暑くて動く気がしないんだよ」
そう言うフレッドに僕は笑顔で頷いて、冷やし中華を一口分箸で摘まんだ。
キュウリは、除いた。
フレッドの口元に、持っていくとフレッドはゆっくりと口を開けて、冷やし中華を口に含んだ。
「おいしいな」
「うん。良かった」
「なぁ、俺、多分さ、もう、」
「も、もっと、食べる?」
僕はフレッドの言葉を遮って言った。
「・・・そうだな。いや、取っておいてくれないか?ちょっと眠くなってしまった。起きたらまた食べるよ」
「分かった。取っておくよ。じゃあ、・・・おやすみ」と言ってから僕はドアを閉めようとした。
するとフレッドが静かに言った。
「なぁ、ありがとな。キャロルにもそう言っておいてくれ。おやすみ」
僕はその言葉に何も言えずに、ただ笑顔を見せた。
そして、冷蔵庫のドアを閉めた。
冷蔵庫のドアは、やけに重く感じた。

僕は居間でやり場の無い気持ちを抱えていた。
一重に、フグが割烹着の男に連れて行かれたからという理由ではない。
今日はなんだか悪い事ばかり起こる。
その時、フグが言っていた「煙草くらい吸わなきゃ、やってられないでしょ」という言葉を思い出した。
僕はフグが忘れていった、というかもはや遺品の煙草を一本手に取った。
火をつけようと思ったけれど、ライターの火がなかなか点かない。
何度やってもダメで、僕はライターを投げ捨てた。
ライターにも嫌われた夜だった。

翌朝、ほとんど眠らなかったせいか頭がぼーっとしていた。
とりあえず、ドアポストを除くと味噌が届いていた。
「甘口」というステッカーが貼ってある。
今日の川の流れは、ゆるやからしい。
僕は味噌を持ったまま冷蔵庫の前に立った。
ノックをする勇気が出なかった。
でも、このままにしておくわけにはいかない。
僕は意を決してノックをした。
返事はない。
ドアを開けた。
そこにはフレッドの姿はなくて、代わりにキュウリが三本あった。
僕は、泣くのを堪えて、それを手にして、胸元で抱きしめた。
「仕方がない」と自分に言い聞かせる。
河童は最後、冷たい所に閉じこもりキュウリになる。
これも河童七不思議の一つだ。
僕は胸元にフレッドだったキュウリを三本抱きしめたまま、電話を取って「999」とダイヤルした。
こういう時のために、河童なら誰でも知っている番号だ。

喪服を着た寿司屋はすぐにやってきた。
「この度は御愁傷様です」と膝をついて丁寧に喪に服してくれた。
僕は昨日の晩まではフレッドだったキュウリを二本差し出した。
寿司屋は「確かに、お預かりしました。こちらで供養致します」と言って、白い絹の布に二本のキュウリを丁寧に包んだ。
寿司屋が帰る時、「毎度」と言ったが僕は何も言えずにドアを閉めた。

その日は川に流れに行かないことにした。
とても川を流れる気分じゃない。
僕は一先ず、フレッドのことをキャロルに伝えるために電話を掛けた。
「フレッドが河童巻きのキュウリになったよ」と僕が言うとキャロルは声を詰まらせた。
何も言わない彼女に僕は話した。
一昨日の晩から暑がって冷蔵庫に入ったこと、徐々に小さくなっていった事、最後に冷やし中華を食べたこと、そしてキャロルにありがとうと伝えてくれと言われたことを、できる限り細かく伝えた。
それから、一本だけフレッドだったキュウリを渡さなかったことを話して、全部黙っていた事を謝った。

キャロルは黙って聞いたけれど、僕が話し終わると「ねぇ、あなたは、今日川に来ない気でしょう?ダメよ。フレッドのキュウリを持って来なさいよ。川に流してあげましょう。私と一緒に送り出しましょうよ」と言った。
その言葉を聞いて、今まで堪えていた涙が出た。
声を上げて泣きたかった。
涙が止まらなかった。
でも、歯を食いしばってキャロルの言葉に「うん」と応えると、電話を切って、家を飛び出した。

 

 

おわり


河童の話
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