あるところにクソイクメン野郎がいました。
クソイクメン野郎は、そもそもただのクソ野郎でしたが、イクジに参加することを潔しとして、積極的にイクジに参加する事で世の名声を欲しいがままにし、その地位、イクジをするメンズ、「イクメン」の称号を得ることによりクソイクメン野郎に上り詰めたのです。
そもそも、このイクジとは、子を育てる事であり、以前は漢字で「育児」と書かれておりました。
しかし、「あれ、なんか、どことなく差別的な匂いがする」という声がどこからか湧き出て、広がり、とどまることを知らず、終わりがないどころか、始まりすら見失った論争に次ぐ論争を生み、結果、今のカタカナ表記に落ち着いたのであります。
この流れは何も珍しい話ではありません。
セイジ(政治)やグンジ(軍事)も、どこからか聞こえてきた「おやおや、差別的な匂いがしないかい?」という声により、カタカナ表記になったわけで、イクジとその二つを含めて、3G(すりーじー)と呼ばれたのは記憶に新しいことと存じます。

兎にも角にも、このクソイクメン野郎は、「イクジ界のクソプリンス」という異名を持つまでに著名な人に仕立て上げられたわけでありますが、全員がこのクソ野郎を認めていたわけではありません。
クソ野郎を認めない人たちの大半は、「そもそも男がイクジをするのは当たり前だろうが。チチオヤなんだから!イクメンとかいう新たなジャンルを立ち上げてんじゃねーよ!」と言うのです。
何を言っているのか、分かりませんな。
クソイクメン野郎は、そう思いました。
まぁ、たいていの事は、何が何だか分からないのが世の常です。大目に見てあげましょう。
そうそう、チチオヤも元々は漢字でしたが・・・もう、言わずもがなですね。

さて、その「そもそもチチオヤなんだから論」でありますが、賛同する人はたいへん多く、クソイクメン野郎が抱える葛藤やストレスなどは、全く以ってお話にならないと言われる事も多々あります。
そこで、考えてみたわけです。
あ、考えた張本人は、クソイクメン野郎でも、クソイクメン野郎に異論を唱える者でもありませんし、書き手の私でもありません。
お星様です。
空高くに光り輝く、今は亡き、お星様です。
ですので、実際に考えられたのも、遥か昔の事なのでしょうね。
遥か昔のことであっても、ダイジョウブ。
時代は、そして、歴史は繰り返すものであります。
大体、過去の事は現代でも何かと役に立つものです。
というわけで、お星様の考えをさらりとみてみようではありませんか。

まずは、お星様が一体何について考えたのかということを申さなくてはなりません。
それは、至極簡潔であります。
「チチオヤ」についてです。
お星様は「チチオヤ」について考えを巡らせたのですが、思考が巡った過程については触れません。
その過程に特筆すべき事は何もなく、からっきしであるからです。
注目すべきは、お星様が「チチオヤ」について考える上で発した一言です。

 

「チチの背中は広かった」

 

お星様はそのように言ったと言われております。
しかし、この言葉は甚だ信用のおけない言葉だと思われます。
なぜなら、いくら「オヤコ」と言えども、お星様的距離感を以ってするのであれば、チチ星とコ星は、途方も無い物理的距離を有していたわけです。
当然、チチの背中は豆粒のようにちっぽけに見えるはずでしょう。
つまりは、物理的な広さではなく、気持ちの面での広さであるとでもいうのでしょうか。
あぁ、でも、確かにそのような事は人間においても言える事ですね。
「男は背中で語る」などという半狂乱な言葉を耳にしたことがあります。
男は背中で物を申す。
それが美学であるような雰囲気を醸し出しているから怖い表現ですね。
これについては、以下のようにYahoo!知恵袋においても議論されているようです。
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「ブレーキランプ5回点滅ですか?」という結びの一行がこの質問を、異様に深いものに仕立てています。
この質問者の器量は計り知れません。

さて、少し趣旨から脱線したように感じたならば申し訳ありません、御察しの通り、脱線していました。
お星様のくだりから、何が言いたかったかと申しますと、少し前までは、少なくともお星様がご存命の時分には、チチオヤは背中でイクジに関わっていたのかもしれないということです。
そして、世間もそれを潔しとしていて、チチオヤは、家庭に背を向けて、その広さを見せつけたり、何かを語ったりすることを、チチオヤのイクジとしていたのでしょう。
このことでチチオヤとハハオヤがお互い出来るところと出来ないところをカバーしていたと思われます。
背中で語っているだけのチチオヤのやり方が消極的イクジとは言い切れなかったのです。
いや、これは100%憶測でしかありません。
根拠など探すに値しないほどの憶測であります。
一つ確かな事は、クソイクメン野郎は背中で語る機会が極端に少ないのではないかということです。
そもそも家庭に出来るだけ背中を向けないようにしているように思えるのです。
なぜでしょうか。
それは流行によるものです。
世間を大きな波に巻き込むのはいつだって流行であります。
イクジに関する流行が以前と変わったのでしょう。
世情や、生き方、価値観が変わるように。
例えば、手紙が電子メールになり、そしてSNSやTLP(テレパシー)になったように、イクジもその目的自体は変えずに、実行する側の人間が方法を変えているのです。
つまり、それが現代のイクジの流行なのであります。
この観点で言うと、「そもそもチチオヤなんだから論」ですら、イクメンという地位を含む流行の一コマに過ぎないわけであります。
ブームというところをさらに突き詰めれば、将来はイクメンブームが行き過ぎて、チチオヤとハハオヤの立場が逆転した挙句に、「そもそもハハオヤなんだから論」が流行する可能性も否めないのです。
それが善とか悪とかの話ではないのです。
時代の流れなのです。
一先ず、憚りながら、私は現在蔓延するこの流行に名前を付けてみました。

「クソイクメン野郎VS女子力ババァ〜コドモの意見は置き去りやっほい〜」

いかがでしょうか。
ちっとも深い意味はありません。
おまけに、浅い意味もありません。
ただ、汚い言葉が使いたかっただけであります。
気分を悪くされたら申し訳ございません。
それから、過去の大作、「エイリアンVSプレデター」のパクリだろう!と叱責されれば、返す言葉もありません。
これまた、申し訳ございません。

さて、また脱線しました。
脱線ついでに、私はとある仮説を立てました。
クソイクメン野郎もただ流行に乗っているだけで、本質は違うかもしれないという仮説です。
もしかしたら、クソイクメン野郎は、背中で語るイクジができるのにも関わらず、流行に流されて「イクメン」の称号を得たのではないのか。
そう思った私は、クソイクメン野郎の本質を見破るために、ヤツの背中を見てやろうと思い立ったのです。
クソイクメン野郎が背中で語る事ができる程の器を持っていれば、ただ流行を追いかけている偽イクメン野郎なのです。
思い立ったが吉日。
私は出掛けて行きました。
クソイクメン野郎は、コドモと共に公園で遊んでおりました。
滑り台を滑り降りようとするコドモを、下で迎える算段のようであります。
クソ野郎はしゃがんで、我がコを待ち構えております。
私は、此処ぞとばかりにヤツの背中を見ました。
見てしまいました。

 

「不退転の決意」

 

などと、ヤツの背中が語っておれば、私もヤツを野放しにするつもりはなく、「男は背中で語るのではないのか!一時の流行に流された偽イクメン野郎め!なぜ、その背中を見せて、これが俺のイクジだ!と堂々としていないのか!」と叱咤激励しにいくつもりでありました。

しかし、ヤツの背中は身も心も凍える、あの三文字を語っていたのです。

 

「安月給」

 

私は、逃げるようにその場から駆け出しました。
目的もなくアスファルトを駆け巡る、その道すがら思ったのです。
クソイクメン野郎とか、偽イクメン野郎とか、クソ野郎とか、なんだっていいじゃないか。
ハハオヤが、チチオヤが、コドモが、みんな笑える瞬間があるのなら、背中で語るイクジ方法だろうが、積極的参加のイクメンだろうが、どうだっていいじゃないか。
全てはそのチーム(家族)のプレイスタイルじゃないか。
流行のやり方や主張に流されるのは馬鹿げている。
チチオヤとハハオヤが共に家族の幸せを願えば、そこには自然と素敵なイクジが存在できるのではないのだろうか。
ただ、私たちはいつだってどこでだって、自分に甘いだけなのである。
そこまで想いを馳せた時、ようやく足を止めました。
どのくらい走っていたのか分かりません。
息は切れ切れで、乾いた喉がくっつきそうでした。
なぜか半泣きの状態でした。
悲しさが理由ではありません。
ただ、ふと先ほどの公園の光景が頭によぎったのです。

 

クソイクメン野郎は、滑り台から滑り落ちてくる我が子を笑顔で迎えたに違いない。
そのままコドモを抱き上げて、高く持ち上げたりするのだろう。
そして、抱き上げられたコドモも多分きっと笑顔である。

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という机上の空想を乱暴に振り回してみたが、いかがであったろうか。
こんなに長い上に内容はひたすら薄っぺらい駄文を最後まで読んで頂いてありがとうございます。
全ては大いなる暇つぶしなのです。

 

 

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クソイクメン野郎の背中が語るそれ