「海には行けないの」

 

18 ホタテ

本当に居るとは思わなかったけれど、波野さんはそこに居た。
社からは少しずれたところに立って、夕焼けに染まる空を眺めていた。
夕日自体は、境内の回りに植えてある木と被って見えない。
僕は波野さんを見付けて、駆け足で近寄ったけれど、憂いを纏って空を見上げる彼女を見てしまうと声を掛けることが憚られた。
僕は走るのを止めて、ゆっくりと彼女に近づいた。
僕の気配に気付いたのか、彼女はこちらに顔を向けた。
僕は微笑んだ。
その瞬間。
「波野さん!!!!」
「波ちゃん!!!!」
「波野さん!!!!」
そう叫ぶ声がほぼ同時に聞こえた。
後ろの方から。
僕は驚いて後ろを振り向くと、男が三人走ってきている。
正確に言うと、二人は走っているけど、一人は自転車に乗っている。
何事だ?
そう思っているうちに、彼らはずんずん近づいていくる。
若い男二人と、おじいさん一人。
思わず、波野さんの方を見ると笑っていた。
知り合いなのだろうか?
そして、まずは、なぜだか右手を腰に添えている大学生の男が、僕の横までやってきた。
息を切らせながら「な、波野さん!」と言う。
そのすぐあとに、自転車に乗ったおじいさんがやって来て、言う。
「波ちゃん!」
そして、最後に長身で短髪の男がやって来て「波野さん!」と言う。
僕は全く状況が掴めずに、振り返って「波野さん?」と言う。
波野さんは、ただ笑っていた。
夕焼けの空の下で、ただ笑っていた。

 

「あれ、え?おっさん、それ!」と言ったのは大学生風のやつだ。
「それ、マイツムリ号じゃないですか!」
そうしている間に、長身の男が、「あ!お前!阿呆でおかしな哀れ大学生じゃないか!」と言う。
おじいさんは「コンブ!何でこんなところに?」と不思議そうだ。
そして、最後にみんなで言う。
「え?知り合い?波野さんと?」
だだ一人、おじいさんが「波ちゃん」と言っていて、違和感を覚える。
なんだか負けた気がしたからだ。

 

僕はこの集まりに関係が無いと思っていたが、長身の男に「あれ?それ、トラの皿じゃん」と言われて、関係があることが明らかにされた。
おじいさんがそれを聞いて「本当だ!うちのヤツじゃねぇか!」と大きな声を出した。
できるなら、関わりたくなかったが。
とりあえず、全員が、波野さんの知り合いと言うことは間違いがなさそうだ。
しかし、そのことに言及する前に、大学生風の「それ、マジで、俺の自転車だから返してくれませんか?」という言葉を皮切りにややこしくなった。
「いや、お前も卵返せよ!」大学生風に長身の男が言う。
「そしたら、あんたも、返してくれないか?その皿」とおじいさんに言われる。
「わざわざ、青い皿をこしらえてもらって悪いんだけどね」
そう言った。
アオナミ皿を作ったのが僕だということもバレているのか。
しかし、これを返すわけにはいかない。
だって、これを返してしまうと波野さんと海に行けなくなるじゃないか。
僕が黙っていると、「あのさ、お前、マジで卵返せって。ほら、この二千円も返すから」と長身の男が大学生風に言う。
「いや、それはできない。だって、俺はこれを渡して波野さんと海に行くんだもの」
大学生風は自慢気に言った。
「それはどういうことだ?」
僕の気持ちをおじいさんが代弁した。
「波野さんと海に行くのは、俺だぞ?」
「いやいやいや、その年で何言ってんすかマキガイさん。俺ですよ。波野さんと海に行くのは、だってほら、これも持ってるし」
そう言った長身は、背負っていたリュックの中から本を取り出した。
「そ、それは!」
思わず声が出る。
「でくのぼう漂流記 第5巻!!!!」
「え、お兄さん、このくそつまらなそうな本、知ってんの?」
カチンときた。
「その本の面白さが分からないなら、さっさと僕に渡してくれないか?」
「いや、無理ですよ。だって、これが波野さんと海へ行く切符ですもん。お兄さんこそ、マキガイさんのトラの皿返してくださいよ」
「こ、これだって、波野さんと海に行くための切符だ」
僕は気後れしないように言った。
「え?ということは、みんな、それぞれ持ってるのが、波野さんと海に行くための物ってこと?まぁ、俺の卵もそうなんだけど」
大学生風はそう言った。
すると、間髪入れずに長身が言う。
「ならば、尚更、返してもらわなければならないね!俺は断じて返す気はないが」
その言葉で場は更に荒れた。
「返せ」「返さぬ」の投げ合いであった。
「なんだか、小説みたいな展開になってきたな」と思いつつ、チラリと波野さんを見ると、楽しそうに笑っていた。
ヒグラシは鳴いているが、夏の夜はまだしばらくやってこなさそうだ。

 

 

「海には行けないの」-18-
2013.8.29

海には行けないの 18