「海には行けないの」

 

13 コンブ

「ところで、猫は青いものを見ながらでも、食欲が落ちないものなのか」と、俺は呟いた。
マキガイさんはそれに対して「関係ねぇだろ、これはこれで綺麗なもんじゃねぇか!」と言う。
それにしても、何でこんなことになったんだ?
「誰の仕業だろうか?」と思ったとき、頭に浮かんだのは、あの阿呆だ。
あの、阿呆でおかしな哀れ大学生である。
あの野郎。
卵だけでなく、猫のエサ皿まで持っていくとは、阿呆にも程がある。
俺はマキガイさんに言った。
「もしかして、皿を盗っていったのは、さっき話した、おかしな奴の仕業かもしれません」
「何だって?」
「ポケットからみそを出すくらいですから、猫のエサ皿の一つくらい簡単に盗っていくでしょう」
「そうだとしたら、本当に危ないヤツだな。まぁ、でも、代わりにこの青い皿があるから良しとしよう」
「その油断が禁物ですよ!良いですか?そのおかしな奴は、あり得ないほど沢山の鍵を騒々しく腰にぶら下げていますから、そのようなヤツを見かけたら、注意してくださいね!」
俺はそうやって、念を押した。
「あぁ、気を付けるよ。ところで、お前、もうあがっていいぞ」
そう言われて俺は、ポケットから携帯を出して時間を見た。
17時を少し過ぎていた。
バイトは17時までだから、もう終わりだ。
後半、なんだかバタバタしていて時間が経つのが早かった。
「じゃあ、あがりますね。お疲れさんです」
俺はマキガイさんに挨拶をして物置兼更衣室に向かった。

 

帰る支度を整えて、リュックの中のそれを見た。
そうそう、俺はこの時を待っていた!!
今からこれを波野さんに渡しに行くのである。
そして、その先に待っているのは、青い海、広い空、白い波野さん。
考えただけで、波の音が聴こえてきそうだ。
ニヤけ笑いが止まらなかった。
今日は、これを手に入れるために早起きをした。
「早起きは三文の得」と言うが、波野さんと海に行けてしまうのだ。
三文どころでは済まないし、済んでは困る。
朝10時に家を出るなんて、俺のフリーター生活上、かつて無い事である。
眠い目を擦りながら、商店街に向かい、まだ閉まってるバイト先の「定食屋しおさい」を通りすぎて、一度も足を踏み入れたことの無いコーヒーショップに入った。
そこで、波野さんとの会話を思い出す。

 

波野さんは言った。
「ただし、条件があるから、それをクリアしたらの話ね」と言った。
「条件とは、何ですか?」
「コーヒーは飲む?コンブさんは」
「いえ、あまり飲まないですね」
「あらそう。じゃあ、知らないわよね、パシフィック・オーというカフェ」
「あぁ!あそこなら知ってますよ」
「じゃあ、知っているかしら?そこに青空文庫があるのは」
青空文庫。
波野さん曰く、寄付された本が置いてある棚で、持ち出し自由らしい。
俺は洒落た店内を見渡し、それらしき棚を探すが分からなかった。
そんなことをしていると、「ご注文お決まりでしたらどうぞ」とカウンターの向こうにいる、若い女性の店員に言われる。
午前10時過ぎに見るには刺激の強すぎるかわゆい笑顔で言われたため、ふらふらとそちらへ吸い込まれてしまった。
「ご注文どうしますか?」
メニューを見るが、コーヒーは普段飲まないのでさっぱり分からない。
初めての経験に、緊張しながら悩んでいると、かわゆい店員が「只今フラッペツィーノAがおすすめでございます」と言うので、「じゃあ、それで」と言う。
「サイズはどうしますか?」と言われる。
サイズ?
悩んだその時、かわゆい店員の胸元がちらりと目に入る。
「Cで!」と答えた俺は消えたくなった。
「え?」
かわゆい店員の聞き返しに、「あ、ふ、ふつうで!」と慌ててカバーして事なきを得た。
ここで、明言しておきたいのは、波野さん以外に気持ちが傾いたことなど一度たりとも無いということだ。
うん。
それだけは明言しておきたい。

 

フラッペツィーノAは、恥ずかしい思いをして、火照った体を冷やすのに丁度良い冷たさであった。
それをちゅうちゅうと吸いながら、かわゆい店員に教えてもらった、青空文庫の棚を見ていた。
そこでまた、波野さんとの会話を思いだす。

「取ってきて欲しいのよ、そこにある本を」
「良いですけど」
「5巻よ、シリーズ物の」
「ずいぶんと中途半端な巻数ですね」

俺はその第5巻を手に取っていた。
表紙からして、見るからに詰まらなそうな本であった。
一体、誰がこんなものを読むのだろうか。
読む奴の顔を見てみたいものである。
きっと、破廉恥な顔をしているに違いない。
おっと。
おっと、危ない。
波野さんが読むのだ。
波野さんは決して破廉恥な顔などしていない!
むしろ、そんな破廉恥な事を思った俺の方が破廉恥な顔だ!
‥‥いや、破廉恥は言い過ぎだ。
せめてハレンチにしよう。
少しは、かわゆくなるから。

 

「ずいぶんと中途半端な巻数ですね」
俺のその言葉の後に、波野さんは言った。
「ふふ。いいのよ、それが。そうそう。『でくのぼう漂流記』よ、題名は」
‥‥詰まらなそうだ。
実に詰まらなそうだ。
波野さんが欲しがる本なのに、俺はその時もそう思ってしまった。
だから、阿呆に卵を盗られたのかもしれない。
全てのものごとには裏がある。
だから、きっとそうに違いない。
波野さんが欲しがるものにケチを付けたからバチが当たったのだ。

 

 

「海には行けないの」-13-
2013.8.24

海には行けないの 13