「海には行けないの」

 

19 コンブ

「断じて返す気はないが」
俺は言ってやった。
当たり前だ。
こいつらは、何を勘違いして波野さんと海に行けると思っているんだろうか。
大体、波野さんと他の連中がどういう関係か知らないが、それぞれが持っている「切符」を見れば、全てが明らかになるじゃないか。
まずは、阿呆でおかしな哀れ大学生だ。
哀れすぎて、意見を述べるのも可哀想だが言っておこう。
ヤツが持っているのは、ただの生卵だ。
いいか?
卵だ。
それも、なんの変鉄もない、卵だ。
残念すぎるにも程がある。
それから、マキガイさんは、ただの自転車だ。
どうやら阿呆大学生の自転車らしいが、それが本当なら、尚更価値の無い、ただの自転車以下の自転車だ。
それが波野さんと海へ行く切符になるわけがない。
そして、賢そうな青年。
賢そうなのは見た目だけで、手に持っているのは、猫のエサ皿だ。
ばっちぃ。
残念だが、そんなばっちぃものでは、波野さんと海に行くことはできない。
そこで、俺の登場だ。
俺が持っているのは何だ?
本だ。
どんな本だ?
「でくのぼう漂流記 第5巻」だ。
漂流記だと?
あぁ、そうさ!
漂流記さ!
漂流とは、海ですることである!
海だと!?
あぁ、そうさ!
海さ!
海なのさ!
俺のだけ、海が絡んでいるのさ!
即ち、波野さんと海へ行けるのは俺だけである!!

 

「というわけで、諸君、ここは、おとなしく家に帰りたまへ」
俺がそう言うと、「お前、何言ってんだ?俺はな、波ちゃんと海へ行くためにここに来てんだよ!」とマキガイさんが言う。
「おめぇらとはよ、覚悟が違ぇんだよ!」
マキガイさんはそう叫ぶと、穿いているジャージのズボンを脱ぎ捨てた。
なんと、海パンを穿いていた。
しかも今風のものではなく、ブーメランのような雰囲気である。
それから、背負っていたリュックの中身をひっくりかえして、シュノーケルやらレジャーシートやら浮き輪や、それを膨らませる道具をぶちまけた。
「ほら見ろ!今すぐに波ちゃんと海へ行けるのは俺だけだ!!!!」
さすがに言葉がでなかった。
それは、阿呆大学生も賢そうな青年も同じであるようだった。
しかし、そこでいち早く動いたのは、阿呆大学生で、マキガイさんのシュノーケルを拾い上げた。
「ふふふふふ。これが無ければ、海へ行ってもシュノーケリング出来まい!マリンスポーツからシューノーケリングを取ってしまったら馬糞ウニ探ししか残らない!せいぜい楽しむんだな!」
「あ、お前!返しやがれ!」
「まずは、おじさんが、俺の自転車を返すべきだ!」
「そんな訳いくか!阿呆め!」
そのマキガイさんの言葉を合図にして、二人は取っ組み合った。
それを見ていると、横から、賢そうな青年に言われる。
「あのー。でくのぼう漂流記、もらえませんか?」
その手には乗らん!
「無理です。波野さんと海へ行くのは俺です」
「いや、僕は純粋にその本の続きが知りたいだけなんだ。‥‥なんならお金を払ったって良い!もう、それ売ってないんだよ。1万円くらいなら出せる」
「い、1万だと?」
正直、心が動いた。
ついでに『でくのぼう漂流記』を持つ手も動いて、渡してしまうところだった。
間一髪だ。
危うく1万円で波野さんと海へ行く切符を売り渡すところであった。
俺が渡さない事が分かると、青年は言った。
「そうか。それならば仕方ない。もし、僕がここで空手ができると言って、実際に空手ができたら、小説にでもなりそうだとは思わないかい?」
こいつ、何言ってやがる。
全く意味が分からん。
でも、意味なんて考える間も無く、彼はそれっぽい構えをした。
痛そうなパンチを放ちそうだ。
逃げ出したかった。
でも、俺は思い出した。
すぐそこに波野さんが居ると言うことを。
逃げ出すわけには行かぬ。
俺は言った。
「知っていますか?全てのものごとには裏があるってこと。つまり、俺にだって、裏の顔があるんです」
そして、痛そうなパンチを放たれても、ヒラリと避けられそうなリズムを刻んで跳ねた。

 

それは、もう泥沼であった。
いい大人達が、境内で何をしているのだろうか。
なんとも、ひ弱で醜い争いを繰り広げた俺たちは、それぞれがそれぞれの物を取り上げ、それぞれの夢を打ち砕いた。
そして、その頃にはみんな精魂尽き果てていた。
それなのに、夏の夕焼けはまだ続いてた。
「陽が長いわね、夏は」
地面に倒れ混んでいる俺たちの横で、波野さんはそう言った。
波野さんは俺たちのひ弱で醜い争いに愛想を尽かすことなく、ずっとそこに居たのだ。
もし、愛想を尽かして、どこかへ行ってくれていたのなら、どんなに良かったことか。
そうでなかったために、俺たちは精魂尽き果てるまで、意地の張り合いを続けなければならなかったのだ。
俺たちが仰向けになって、「うぅ」とひ弱な呻き声を上げていると、波野さんが言った。
「あらら、残念ね、これは。誰も条件通りの物を持っていないじゃない」
その言葉を聞いたとき、俺は思い付いた。
こんなことなら、それぞれ条件通りの物を波野さんに渡して、順番に海に行けば良かった。
しかし、時すでに遅し。
「言ったじゃない、だから」
波野さんは楽しそうに言った。
「海には行けないの、私」

「やられた!」
そう言って笑ったのは、マキガイさんであった。
そして、更に続けた。
「じゃあ、波ちゃん、プールはどうだい?」
「マジかよ。そこで誘うのかよ」
静かに笑ったのは、阿呆大学生だ。
阿呆に笑われるマキガイさんを思うと、さすがの俺も苦笑した。
賢そうな青年は、「ふん」と鼻で笑っている。
当然、波野さんは言うわけだ。
「行ってもいいわよ、プール。でも、条件をクリアできたらね」
それを聞いたマキガイさんは言った。
夏の夕空に向かって、大きな声で。
「もちろん、チャレンジするさ!人生何があるか分からんからな!!」

 

 

おわり

「海には行けないの」-19-
2013.8.30

海には行けないの 19