「僕の町」

 

13

僕と兄は月が出る前に出掛けた。
「どうせなら、美味しいところに行こう」
兄がそういうから僕は黙って付いていった。
電車に乗ったけれど、『グレート・ギャツビー』を読んでいたらあっという間だった。
兄に「降りるよ」と言われた駅は、僕がまだ降りたことのない駅だった。
僕が不安にならないように「LuLuがある駅から二つ先の駅だよ」と兄が教えてくれた。
兄は優しいんだよ、君。
もう知ってるって?
それもそうだね。

 

その店は少し大きな店で、人もそこそこいる。
程よい騒音があった。
ユリタニさんが働いているレストランに似ている。
そういえば、ユリタニさんは元気だろうか。
僕はそんなことを思った。
これも恋煩いのせいかい?
だとしたら僕の恋煩いもいよいよ末期だよ、君。

僕らは食事をしながらワインを飲んだ。
「最近、あまり不安になったりイライラしなくなったね」
兄に言われた。
確かにそうかもしれない。
これは、僕にしてはすごいことだよ、君。
僕は「いつも」とちょっとでも違うだけで、不安になってイライラしてしまうんだから。
起きる時間も、町のパトロールに行く時間も、パトロールのルートも何も変わっちゃいないけれど、最近は不安になることが少なくなった。
僕はその理由を知っている。
君にも分かるだろう?
答えは兄が言ってくれた。
「もしかして、ユリタニさんのおかげじゃないか?」
兄は嬉しそうな顔をしている。
僕は隠さずに頷いた。
今日は男二人で飲んでいるのだから。
兄はそんな僕を見て、さらに嬉しそうな顔をしたんだよ、君。

僕は兄にユリタニさんのことを話したかった。
彼女がどんなに真っ直ぐな人か。
僕が好きな「晴れ」と、どれだけ同じくらい晴れ晴れしてる人か。
どこかおかしい僕をどれだけまともに相手にしてくれているか。
そして、僕がどんなに彼女に救われたか。
兄に伝えたかった。
ワインを飲んで、気分が良くなればなるほど、話したくなった。
でも、僕にはできない。
君に時間があれば今すぐにでも来てほしいくらいだよ。
そして、僕の気持ちを言ってくれよ。
それぐらい容易いだろう、君。

「よし、それじゃあ、今度ユリタニさんにお前の事をどう思っているか、聞いておこう」と笑いながら兄が言った。
それはすごく恥ずかしいからやめてくれと、僕は大きく首を横に振った。
でも、兄は「残念だね、これは兄の特権だよ」とまた笑った。
なんていうことだ。
こういうときの兄には、首を振るだけじゃ勝てないんだよ、君。
僕は兄が大事に食べているステーキをフォークで刺して「返してほしくば、ユリタニさんには何も聞くな!」と目で訴えた。
兄は「ステーキぐらいなんてことないさ」と笑った。
どちらにせよ、僕の負けみたいだ。
「嘘だよ、そうムキになるなよ。俺はそんなことをやっているほど暇じゃないんだ」
兄はそう言ったけれど、なんだか腑に落ちないからフォークで刺したステーキは食べてやったんだよ、君。
それでも兄は「大人はそんなことで動じているほど暇じゃないんだ」と言って、涼しい顔でワインを飲んだ。

兄はそのままグラスのワインを空けると、ゆっくり上を見上げた。
僕もなんとなく上を見た。
おとなしい電飾がぶら下がったレストランの天井がそこにあった。
「なぁ、今日も月は綺麗だろうな」
兄は呟いた。
僕は「もちろんさ」と言うように頷いた。
「お前にはどんな風に月が見えてるのか分からないけれど、結局は俺が見ている月と同じ月だ」
兄が何を言おうとしているのか、いまいち分からなかった。
ただ、すごく真面目な声だった。
「お前がどんな風にこの世界を感じて、生きているのか分からないけれど、結局は俺が生きている世界と同じ世界だ」
兄はまだ天井を見上げている。
本当にそこに月があって、それを見ているようだった。
これは、大事な話だと思った。
君にもそう思えるだろ?
だとしたら僕の第六感も捨てたもんじゃないね、君。
僕は兄の言葉を聞き逃さないように、しっかりと耳を傾けた。
「だから、お前を取り巻く環境が変わっても何も不安に思うことはないよ。俺が生きている世界でもお前が生きている世界でも、林檎は赤い」
確かに、林檎は赤いから僕は頷いた。
そして兄は最後に今日の本題を言ったのさ。
僕はそれを聞いたとき、嬉しくて、寂しくて、不安になったんだよ、君。

兄は言った。
「春に、サキちゃんと結婚するよ」
どうだい?
僕と同じ気持ちになるだろう、君。

 

 

「僕の町」  -13-  2013.2.2


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