「僕の町」

 

9

君は知らないだろうから、教えてあげるよ。
ママはぐるぐるキャンディに取り憑かれる前はとても優しかった。
喋れない僕にとても優しかったんだよ、君。
ママが言ってくれた「あなたと私は紙一重なんだから、何も恥じることはないのよ」という言葉は、そのときの僕を救ってくれた。
その言葉を、ユリタニさんに言われるなんて思ってもいなかった。
だから、動けなくなったんだ。
僕にとっては特別な言葉だったから。
こういうとき、君は運命を感じるかい?
感じるなら僕は安心して運命を信じることができるよ、君。

 

動けなくなった僕を動かしたのは、兄からの電話だった。
「鳴ってるよ、出なきゃ」
ユリタニさんはそう言った。
僕は我に返って通話ボタンを押した。
「・・・その音はショッピングセンターにいるね?」
兄は騒音を聞いて判断したようだった。
僕は黙っている。
「遅いから心配したんだ。先にLuLuに行っているから、遅刻しないように」
兄はそう言って電話を切った。
僕は「そんなに遅れたかな?」と携帯の時間を見た。
そして、僕は驚いた。
僕は時間に対しては正確で、遅すぎても早すぎてもイライラしてしまう。
それなのに、いつもパトロール終える時間をとっくに過ぎていたんだよ、君。
僕は慌てて、叫びそうになったけれど、そばにいたユリタニさんの顔を見て瞬時に落ち着いた。
「そろそろLuLuに行く時間なの?」
僕は頷いた。
「じゃあ、バイバイだね。あたしももう少ししたらバイトに行かなきゃ」
僕はまた頷いた。
本当は今すぐにでも駆け出して、帰らなければならないけれど、ユリタニさんと別れることをとても寂しく感じた。
君にもそういうことはあるかい?
あってくれなきゃ困るよ、君。
僕はこんなにも「さよなら」をしたくないんだから。

ユリタニさんは「今度はLuLuに行くわ。そのときはワイン奢ってね」と言って、呆気なく去っていった。
僕はその場に立ち尽くしそうになったけれど、すぐにいつもより遅れていることを思い出して、走った。
早く仕事を終えて、ワインを飲みたい。
飲んで踊りたいんだよ、君。
ユリタニさんのことを思い出しながら。

 

僕はその日、初めていつもと同じ時間にLuLuに着けなかった。
そのことを一番驚いたのは兄で、サキタさんや他のメンバーも驚いていた。
時間通りの行動ができないと、僕は不安になってイライラしてしまうけれど、今日はそんな風にならなかった。
なぜだろうか。
君には分かっているんだろう?
でも、僕にもなんとなく分かっているんだよ。
ユリタニさんのせいだ。
予想通りだろ、君。

 

「頼むよ」
僕は兄に呼ばれて、オーダーを確認した。
それに合うワインを選ぶのが僕の仕事だ。
僕がオーダーを確認してる時、兄が「もしかして、」と言った。
僕はオーダーの書いた紙から顔をあげて、兄を見た。
兄は僕より少し背が高い。
「もしかして、今日いつもの時間より遅かったのって、ユリタニさんが、関係あるかい?」
僕は不意を突かれたように動揺した。
兄はそれを見逃さないんだよ、君。
「やっぱりなぁ。なんとなくそんな感じがしたんだよ。兄の第六感だ。頑張れよ!」
兄に肩を叩かれたけれど、僕はこんなの初めてだから、俯いてオーダーを上から順に何度も読み返してその場をやり過ごすことしかできなかった。

 

その夜、僕はお月さんの下で、いつもより多くワインを飲んだ。
何でって?
君にはもう分かるだろう?
僕は恋に浮かれているんだよ、君。

 

 

「僕の町」  -9-  2012.1.29


知識ゼロからのワイン入門

僕の町 9
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