「海には行けないの」

 

1 シジミ

「海には行けないの、私」
紺の、肩出しワンピースを纏った波野さんは、倒置法を用いてはっきりとそう言った。
「え?」
「ごめんなさいね、シジミくん」
チェーン展開しているパシフィック・オーというカフェに居た。
フラッペツィーノAという冷たい飲み物を片手にお洒落感出しながら、波野さんとこの夏の予定について愛のある話し合いをしていた。
ところが、彼女は「海には行けない」と言う。
当然、俺は聞くわけだ。
「え、何で?」
「‥‥」
向かいに座る波野さんは黙っていた。
もしかして。
もしかして、何かひどい病気とかなのか?
それとも、体に大きな傷跡があるとか‥‥あとは、体型を気にしているとか?
いやいや、服の上からの判断になるが、体型は見事なものだ。
では、なぜ?
悩む俺の表情から何かを読み取ったのか、波野さんは「あ、ビョーキとか、そういうのじゃないわよ?」と言った。
「え、じゃあ、何で?」
「シジミくん、女の子にはあまり多くを聞くものじゃないわ」
そう言って彼女は、フラッペツィーノAが入ったプラスチックカップから延びるストローに口づけた。
俺は「何で?」と言った。
心の中で。

 

夏から海を取ったら何が残るだろう。
きっと、「寝苦しい夜」しか残らない。
そんなの最悪だ。
だから夏に海は欠かせない。
そして、それと同じように海に美女は欠かせない。
海から美女を取ったら何が残るだろう。
きっと、「くそ暑い浜」しか残らない。
だから海に美女は欠かせない。
というわけで俺は、夏に欠かせない海に行くべく、大学の合間を縫っては、アルバイトをこなし、お金を貯めてきた。
それから海に欠かせない美女には、バイト先で知り合った波野さんを宛がおうとした。
ところが、こういう状況だ。
だが、ここで引くわけにはいかない。
だって、俺の周りには、海に相応しい美女が乏しく、更に、わずかに存在する美女はすでに誰かと海に行くことになっている。
夏に不足するのは生活用水だけでは無いということだ。
美女不足も起こる。
その上、波野さんにまで断られたら、俺の夏は早くも終焉を迎えることになる。
それは、避けたい。

 

僕のフラッペツィーノAが無くなりそうだ。
このまま飲みきって「解散!」なんてことになったら目も当てられない。
嫌われるのを覚悟で、勝負するしかない。
「あのさ、海、ずっと行っていないの?」
「そんなことないわ。去年も行ったような気がするし、水着もあるわよ、クローゼットに」
「じゃあ、何で?」と言いそうになって、我慢する。
「じゃあ、今年も行ってみようよ!折角の夏だしさ!」
「シジミくん、しつこい男は嫌われるって、聞いたことない?」
言葉が詰まりそうになる。
「‥はは!そうなの!?じゃあ、あれだね!この夏はとことん嫌われてみようかな。はは!」
勢いで喋るから、変なことになっていく。
「あら、それは勿体ないわよ」
「だよね!はは!」
空笑いをした俺はもう耐えきれなくなって、残り少ないフラッペツィーノAを飲んだ。
ズゴゴゴとストローが音を立てる。
冷たいそれは、遂に無くなってしまった。
ということは、このまま帰ることになるだろう。
終わりだ。
俺の夏。
グッバイ、マイ・サマー。

俺の夏が色を失いかけたその時だ。
波野さんが長い足を組み直して、前屈みになった。
細い腕を顎に添えて僕を見る。
そして小さい声で言うのだ。
「どーしても行きたいというのなら、行っても良いけど、海」
倒置法を用いて告げられたその言葉を聞いた俺は目を見開く。
「ただし、条件があるから、それをクリアしたらの話ね」

こうして、俺の夏にゴングが鳴り響いた。
全ては、美女と海へ行くために。

 

 

「海には行けないの」-1-
2013.8.12


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海には行けないの 1