『頭上のライク』

 

5

午後の仕事に打ち込む振りをしていた。
不味い蕎麦に満たされたお腹のせいで、眠くなったからではない。
周りの人の頭上の数字が気になって、全然集中できないからだ。
集中はできないが、せめてやっている振りはする。
僕は不思議に思っていた。
蕎麦屋のお婆さんの頭上に数字が無かったことだ。
僕が心から「不味い」と思ったあとでもマイナスの数字が出るわけでもなかった。
ということは、マイナスになることはないのか。
それにしても、ゼロの場合は頭上に「0」が浮かぶわけではないんだな。
そんなことを思いながら、同期のヤツと会社へ戻った。
それで、オフィス内で数字が見えない人を探してみようと思った。
だから、仕事に打ち込む振りだ。
打ち込む振りをして、仕事に打ち込んでいるみんなの頭上を見ていた。
だけど、ゼロはいない。
ますます気になった。
なんなんだろうか。
お婆さんはの数字はなぜ…。
そう思った時。
ハナオカさんが視界の端に入った。
少し遠いが照準を合わせる。
かわいい顔でパソコンとにらめっこしている。
お婆さんの頭上のことが気になりすぎて、ハナオカさんのことを忘れていた。
彼女の頭上の数字は…256。
なんとも言えない数字だ。
僕よりは多いが、もっとあると思っていた。
だって、男性陣には人気があるし、仕事ができないわけじゃない。
褒められることもたくさんあるだろう。
なのになぜだ?
そう思ってから僕の頭の中に一つの言葉が浮かんだ。
「オンナノセカイ」
そうだ。
多分、それだ。
ハナオカさんは多分、同姓に好かれるタイプではない。
敵も少なくはないはず。
それが理由に違いない。
僕は気付いてはいけないところに気付いてしまったのかもしれない。
怖いな、オンナノセカイ。
心の中で呟くと、ハナオカさんが不意にこっちを見た。
僕は焦った。
焦った僕をよそにハナオカさんは軽く眉を上げて簡単にアヒル口を作ってみせる。
それで微笑んだ。
一瞬だった。
本当にもう一瞬で、ハナオカさんは僕の反応を待たずにすぐにパソコンに向き直った。
そして、その時、ハナオカさんの頭上の数字が257になった。
僕が「心底、かわいいなおい!」と思ったからだというのは、気付かなかったことにする。

 

終業時間までがこんなに長かったのは社会人8年目にして初めてのことだ。
知らず知らずのうちに、精神的にくたくたで、周りの人の数字もあまり見ないようにしていた。
早く帰って、他人のいない布団の中に潜り込みたい。
最初は他人の数字を見て、なんだかワクワクしていた僕も、その数字を見ることによって色々と想像してしまったり、立ち回りを考えてしまう。
そして、最終的には自分の頭上の数字が気になって仕方なくなる。
とても疲れる。
とても。

 

そんな僕をよそに同期のアイツは「じゃ、行ってくるわ!」と僕の肩を軽く叩いて、「ハナオカさーん」とデレデレしながらハナオカさんの方へ向かった。
ハナオカさんもそんなアイツに微笑んで「行こっか」みたいなことを言っているような感じだ。
なんだよ。
なんだよそれ!
ちきしょう!
僕はもうさっさと帰ることにした。

 

道行く人の頭上の数字を見るのに疲れた僕は、なるべく下を向いて歩いた。
人が多い駅付近になると、人にぶつかる。
「危ねぇだろ!」と怒鳴られる。
舌打ちをされる。
僕は思う。
あぁ、今多分、僕の頭上の数字は下がったに違いない。
そう思うと、より顔を上げられなくなる。
僕を見ないで欲しい。
そうだ。
そうなんだ。
僕は今まで大事な事に気付いていなかったんだ。
あの、帰り道に出会ったおっさんや僕みたいに、頭上の数字が見えるやつは他にもいる可能性がある。
僕の低い数字を見て、バカにするやつがいるかもしれない。
僕は目線を上げて、ぐるりと周りを見渡す。
たくさんの人たちと、たくさんの頭上の数字。
たまに目が合う人がいる。
その人たちがみんな、僕の数字を見ているように思えてしまう。
僕はすぐに目線を下げた。
下を向いたまま電車に揺られて、下を向いたまま、ホームに降り立ち、下を向いたまま改札を抜ける。

 

家までの道を辿るとき、ようやく人の姿がなくなり、顔を上げられる。
夜空に雲は少ない。
月が見えた。

疲れた。

昨日の夜まではゆるやかにくそな日だったけど、今日はなんかもう、ただのくそだ。
僕はため息を吐きながら視線を地上に戻す。
誰も歩いてない、帰り道…のはずだったんだけど、メガネをかけたおっさんが立ってた。
昨日のおっさんだ。
僕の目の前に立ってた。
思わず、歩みを止める。
おっさんは、急にニコッとして左手を胸の高さに挙げたかと思うと、親指を立てた。
そして、「いいね!その疲労感、いいね!」と言う。
すると、チャリーンと音がする。
僕は周りを見渡す。
おっさんと僕しかいない。
ということは、僕の頭上の数字が増えたんだろう。
おっさんに褒められて。
僕は悲しくなった。
だって、そうだろ?
褒められたのは、「疲労感」だ。
もう、訳が分からない。
疲労感を褒める方も褒める方だけど、疲労感を褒められて認定しちゃう僕の頭上の数字も訳が分からない。
「生きにくいだろぉ?」
おっさんが言う。
僕は黙ったまま頷いて、「これ、見れないようにできないんですか?」と思わず聞いた。
「できないね。あ、できるとしたら、65歳になってからだね。そしたら、引退だよ」
「引退?」
なんだそれ、定年退職みたいなもんか?
「65歳になるとね、見えなくなるし、自分の頭上の数字も消えるんよ」
僕はそれを聞いて思い当たった事がある。
蕎麦屋のお婆さんだ。
お婆さんの頭上には数字が無かった。
それはもしかして、65歳以上だからなのか!?
ゼロってわけじゃないのか。
だからオフィスには頭上の数字が無いヤツはいないわけか。
僕はあのお婆さんを羨ましく思った。
「でもねぇ、あれだよ、じきに慣れるよ。そんな生活にも。人間は慣れるから。異常なほどねぇ」
黙ってた僕におっさんはそう言った。
なんだか、深い意味の有り難い教えをもらった気になった。
少しばかり尊敬の眼差しでおっさんのことを見てるとチャリーンと鳴った。
おっさんが、「サーンクス!!」と言う。
つまり、あれだ。
僕がおっさんの言葉に「いいね」したわけだ。
さっきまで、疲れすぎてて見ていなかったけれど、そのチャリーンでおっさんの頭上の数字が1269になった。
増えてる。
昨日の夜より増えてる。
確か昨日は1238だったはずだ。
マジかよ。
僕なんて1上げるのに四苦八苦なのに。
おっさんを越えるとか意気込んでいた僕は、ただの世間知らずだった。
本当にすげぇな、このおっさん。
するとまたチャリーン。
そう、今の僕の「本当にすげぇな、このおっさん」という想いで、おっさんの頭上の数字が1270になったわけだ。
おっさんは言った。
「サーンクス!!」
なんだよ、それ!
思わず、そんな風に思ったけれど、さっきまで疲れていた心が少し軽くなったのは事実だ。

 

 

『頭上のライク』-5-
2014.7.4


三匹のおっさん (文春文庫)

頭上のライク 5
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