『頭上のライク』

 

10

ケータイを使って、「LuLu」で検索をかけると、すぐにそれらしき店が見付かった。
会社のある駅から地下鉄を乗り継いで4駅のところにある、ワインがおいしいレストラン・バーだ。
僕の家からは遠のく。
別にそれで安心したわけではない。
だって、安心も何も、そもそも後ろめたいことは無いのだ。
そう、皆無だ!
僕は駅へ向かいながらそう思う。
19時過ぎだ。
少し早めに店に着きそうだ。

 

ハナオカさんは、気付けばオフィスからいなくなっていた。
それは18時頃のことだったけれど、慌てて出る必要も無いから、集中できずに片付かなかった仕事を片付けにかかった。
それにしても、ハナオカさんは思ったより早く会社を出たな。
待ち合わせは20時だ。
2時間も前に出てもやることがないだろうに。
あ、もしかして。
そうか。
そうなのか。
僕とハナオカさんが会っていたなんて微塵も思えないようなアリバイ工作的なあれか。
なるほど。
そうかそうか。
僕は一人で納得しなから心の中でニヤリと笑った。
ニヤリと笑っていたのに、それを邪魔するものがあった。
同期のアイツだ。
鞄を持って僕の所へやって来た。
「おーい、今日さ、飲みに行かないか?」
僕と同期は週に3回は飲みに行く間柄だが、今日はもう速答で断った。
速答かつ、優しく断った。
だって、僕はハナオカさんに二人きりで飲みに行くことを誘われた、余裕のある男なんだもの。
このあと自分の心がコテンパになることを知らない僕は、可哀想な同期に慈悲をかけてやる。
「ごめんなぁ、仕事が終わらなくてさぁ、なんかさぁ、もうあれだ、明日、行こうぜ?奢るからさ!」
「マジで?奢り?給料前だぜ?随分太っ腹だな!じゃあ、明日まで我慢するよ!仕事、頑張れよ!」
同期は、朝より少し増えた109という頭上の数字と共に意気揚々と帰っていった。
ふっ。
哀れな男よ。
頑張って、幸せになれよ。
僕は彼の背中を見送ったあとで、仕事に取り掛かった。
そして、僕は19時になると会社を出た。

 

店に着いたのは19時40分頃だった。
店のドアはガラスせいの物ではなくて、木製の物であった。
窓も無い。
中の様子が伺えない。
ハナオカさんはいるのだろうか。
ケータイで連絡しようとしたが、躊躇われた。
後ろめたい気持ちは微塵もないのだが、着信履歴とか発信履歴とかそういう事実が残るのを気にした。
いや、ほんと、後ろめたい気持ちは微塵も無いのだけれど、ね。
とりあえず、僕は店に入ることにした。
木製のドアを手前に引く。
雰囲気を壊さない程度に「カランカラン」と音がした。
ドアの上部に付いていたベルだ。
「いらっしゃいませ」と女性の店員が出迎える。
待ち合わせであることを伝える。
店員は店内を案内してくれた。
そんなに広くない作りだ。
入って左側に10人ほど座れるバーカウンターがあり、テーブル席が5つ。
広くはないけれど、余裕のある配置だ。
テーブルでは3組ほど食事をしていた。
カウンターにも2人ほど座っている。
ハナオカさんの姿はない。
とりあえず、テーブルに着くかと思ったとき、心地よい音で「カランカラン」と音がして、足音が近づいてくる。
僕は振り返る。
「あ、もう来てたんだ、ごめんね」
そう言って謝ったのは、ハナオカさんだ。
「いや、あの、僕も本当、今来たばかりで、席をどうしようかと思っていたところです」
「あ、そうなの。うーん。カウンターでいいかな?」
そんな顔で聞かれたら断れません。
ほんの少しだけ首を傾げてこちらを見るハナオカさんは、えらく可愛かった。
そして「チャリーン」だ。
ハナオカさんの頭上の数字が増える。
僕と居るとハナオカさんの数字はぐんぐん伸びるな、と自嘲気味に思う。

 

ハナオカさんは僕の左側に座った。
普段あまり見ることのない横顔は新鮮だった。
メニューを見る彼女を僕は見ていた。
「お腹空いてる?」と不意にこちらを見てくるものだから、視線を泳がせるのが大変だった。
「空いてないです」
僕は答えた。
「じゃあ、ワインと、あとは適当におつまみでいいかしら?」
良いに決まっている。
ハナオカさんの言うことなら良いに決まっている。
僕たちは素早く出てきたワインで乾杯をした。

 

僕はハナオカさんとこんな風にお酒を飲んだことが無かった。
だから分からなかったけれど、彼女は酔うと饒舌になった。
可愛い。
もとから可愛いのだが、さらに可愛い。
飲み始めてから何度「チャリーン」と鳴って、彼女の頭上の数字が増えたか分からない。
僕も少し酔っている。
だから、よりハナオカさんがキラキラして見えるのだ。
しかし、キラキラしたハナオカさんの口から出てきたのは課長の愚痴である。
美しいハナオカさんの口からは出そうにもない言葉がたくさん出る。
彼女の言葉を聞いて、僕が理解したことを言うとすれば、多分、ハナオカさんは課長が同じ星に生きていることも許せないくらい、課長の事が嫌いだ。
今のハナオカさんの愚痴により課長の頭上の数字は、とんでもない勢いで減っただろう。
そこで僕はピンときた。
「きた」というか、「きてしまった」と言った方が正しいのかもしれない。
思い出したのだ。
昼休みの事を。
課長の頭上の数字が「ダダダダダ」と音を立てそうな勢いで減っていった、あの恐ろしい出来事を。
あれはもしや、ハナオカさんの仕業なのだろうか。
真相は分からないが、なんだかそうとしか思えない。
そう考えると、僕は今、恐ろしい人と肩を並べているのかもしれない。
心が震えた。
だけど、だけどだ、そこで彼女は言うのだ。
ちょっと困ったさんの笑顔で言うのだ。
「あ、ごめんね!愚痴ばっかりになっちゃった!あの、…内緒ね!」
もちろんだ!!
もちろん内緒にするよ!!
二人だけの秘密だよ!!
課長は、決して悪い人ではないが、申し訳ない、可愛すぎる。
ハナオカさんが可愛すぎる。
なので、課長の味方はしません。
僕は、そう心の中で呟く。
でも、課長の愚直をずっと聞くのは、課長の頭上の数字の事を想うと耐えられない。
僕は話題を変えた。
「そういえば、ハナオカさん、今日、会社何時くらいに出たんですか?ずいぶん早くからいませんでしたよね?」
「あぁ、そうそう。ちょっと、買い物があってね」
彼女はそう言って、赤ワインを一口飲んだ。
確かに、彼女の隣の席には買い物袋が置いてある。
男物のブランドのそれだ。
僕は「おや?」と思う。
まさかね。
嘘でしょ。
いやいや、うん、まさかだよ。
そうだよ。
さすがに物を貰うのはまずいよ。
僕には彼女がいる。
うん、大変に残念だけれどそれは断ろう。
「そう、それが本題なの」
僕が決心したときに、ハナオカさんがそう言った。
僕はイマイチ話の流れが掴めていなかった。
「それって、どれ?」という顔をして左にいる彼女を見る。
「あの、ほら、誕生日でしょ?もうすぐ」
「え?あ、そうそう!よく覚えてましたね!」と、僕はそう答えたかった。
しかし。
しかし、である。
僕の誕生日は過ぎ去ってまだ2ヶ月ほどしか経っていない。
だからね、優しい僕は教えてあげました。
その、今日買ったプレゼントを渡す相手の誕生日を間違えてしまう、天然娘のハナオカさんに教えてあげました。
「いや、僕の誕生日は過ぎたばかりですよ?」
微笑を交えて言いました。
その惰性で格好よくグラスに入っている赤ワインを飲みました。
するとどうでしょう。
彼女の口をついて出たのは僕の心をコテンパにするものでした。
「え?あ、ゴメン、うん、違うの、ほら、君の同期の…」
僕の頭に同期のアイツの顔が浮かぶ。
傾けたグラスを降ろすことを忘れてしまい、少し溢した。
「あ!こ、溢れてるよ!」
ハナオカさんが慌ててハンカチを差し出してくれる。
僕は我に返ると「あ、だ、大丈夫です!」と言いながら自分のハンカチで濡れたYシャツを叩いた。
「そ、それで、アイツの誕生日、近いですね、確かに」
僕はなんだか焦りながらハナオカさんの話を促す。
「あ、そ、そう。うん。それでね、実はね…」
ハナオカさんの可愛い顔が、真剣なものになる。
Yシャツを叩く僕の手に力がこもる。
「私ね…」
言わないでくれ。
言わないでくれ。
言わないでくれ。
別にハナオカさんに恋をしているわけではないが、言わないでくれ。

「彼のことが好きなの」

僕は一瞬だけYシャツを叩く手を止めた。

その瞬間、同期のアイツの頭上の数字が「ダダダダダ」と下がったことは言うまでもない。

 

 

つづく

『頭上のライク』-10-
2014.7.21


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頭上のライク 10
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