「こ」から始まる短いものがたり

 

「今夜は、ピーマンね」
ママがそう言うと、まだ小さかった私と弟は喜んだ。
そんな光景を思い出したのか、朝、弟が「今日はピーマンが良いな」と言うので、今夜の夕食はピーマンにすることにした。
帰り道、駅を出てから、食材を買うためにいつも行くスーパーに寄った。
店内に入ってすぐの所に、生花売り場があるのを思い出して、思わず早足になった。
一番手前にあった、バラの匂いを嗅いだ。
仄かな匂いが、身体中に染み渡った。

帰りの地下鉄の車内に充満してた、「世界の終わり」のような臭いが
鼻にまとわりついていて、消えなかったのだ。
きっと、私の目の前に座ってた同世代くらいの男の人からだと思う。
だって、尋常じゃないくらい汗を流して、信じられないくらいの内股だったから。

バラの匂いのお陰で、だいぶ気分が良くなった。
さくさくと、食材を探していると偶然、大学の友人に会った。
彼女は、今日、退屈よりも詰まらないデートを済ませてきたと、憤怒の形相で話していた。
それでも最後には「ねり消し入りのサンドイッチをお見舞いしてあげたわ」と可愛い笑顔で言い放ち、清々しくスーパーを出ていった。

彼女が、嫌いな男に容赦ないのは、大学でも有名な話だ。
以前にも、彼女に言い寄った三枚目の男が、「知らぬ間に、パーカーのフードの中でたくさんの卵黄が潰れているよぅ」と半べそをかいて、北九州の実家に帰ったという逸話がある。
でも、私は、そんなことをする彼女を悪く思ってない。
そんな扱いをされるような、男が情けないだけだと思うから。
スーパーを出てすぐに、細身の男に声を掛けられた。
若いけど、年上だろうか。
その男は、とても困っているという。
新手の詐欺かなと警戒していると、私の持つ買い物袋を指差して「どーか、そのピーマンを一つばかりくれないか」と言ってくる。
私は、すぐ後ろのスーパーを指して、そこに売ってるわと返した。
すると、彼は、「それは、百も承知だが、どういう訳だか、金が無い」とすごく爽やかな笑顔で言った。
そこで、会話が止まった。
この人は、何を言っているのだろう。
考えても分からない。
気持ち悪いので、買い物袋からピーマンを取りだし袋ごと投げつけてみた。
それをナイスキャッチした彼は、「こんなにいらないよ、一つで良いんだ」と、またもや爽やかに微笑んだ。
そして、勝手に包装を開けるとピーマンを一つだけ取りだし、ジーンズの左前ポケットにしまい込んだ。
残りのピーマンは返してきた。
私はそれを恐る恐る受けとる。
「ありがとう」と言う男を無視して、さっさと、この場を離れようと歩き出した時、背中越しに彼が呟いた。
「ふぅ。これで、青椒肉絲が作れる」
それを聞いた私は、さっきまでの怖さが少しだけ無くなって微笑んだ。
家に帰ってすぐに、ピーマンの支度をした。
ほどなくして、弟が帰宅した。
「お、できてるね!ピーマン!」と、好きなものを前にテンションが上がっている。

こうした、弟と二人きりの食卓が、私の大切な時間になっている。
ママはもういないけど、ピーマンを二人で食べて笑えるこの時間は、一生無くしたくない。
ふと、弟が「今更だけど」と、話すので、何?と相づちを打った。

「何で、お袋って、青椒肉絲のこと、ピーマンって言ってたんだろうね?」

 

 

「」から始まる短いものがたり
2012.6.19


「」から始まる短いものがたり3