「か」から始まる短いものがたり

 

蝸牛の殻で自転車のかごが埋ってた。
アパートの一階部に停めてある、自分の自転車を見て、軽い悲鳴を上げた。
こっちに戻ってきたばかりだけど、早速、実家に帰りたくなる。
折角、久しぶりに親友に会えて、楽しい時を過ごせたというのに。

今日、家を出るときには、こんなのは無かった。
この数時間のうちに、蝸牛が僕の自転車のかごに集まってきて、中身だけ消滅したというのか。
いや、そんな奇跡が起こってたまるものか。
奇跡はもっと、美しいものである。
では、これは一体、どういうことか。
かごを埋め尽くす、数えきれないぐるぐるを眺めて考えていると、何かの暗示に掛かりそうになる。
そして、ふと嫌な記憶が甦った。
僕が実家に帰ることになった、あの奇妙奇天烈な事件の記憶。
もしかして、これも、あの事件に関係があるのでは‥‥。
その考えを、まるで漫画みたいに左右に首を振って振り払う。
しかしながら、部屋に入る前に見てしまったそれのせいで、部屋に入るのがとても怖くなる。
部屋の中にも、何かがあるのではないか。
こんなときこそ、まさに「とりあえず、踊っとく?」と、友の軽口が聞きたい。

恐怖に飲まれ、ドアの前に立って3分くらい過ごした。
ようやく、決心がつく。
恐る恐る、鍵を回す。
ゆっくりと、ドアを開ける。
そして、一旦閉じる。
その動作を2回くらい繰り返した頃には、余計に恐怖心が煽られていた。

やっと開けたドアの先の部屋は暗かった。
額に、じっとりと嫌な汗が滲む。
玄関脇のスイッチを付けると、電気が点く。
部屋に、異常はなかった。
小声で「クリア」と米軍の真似をして、玄関に踏み込む。
紐靴の紐を解くために、下を向いた。
パーカーのフードが首に掛かる。
すると、何かが落ちて、靴の横に転がった。
ピーマンだった。
なぜ、フードからピーマンが?
また、フードから‥‥。
鼓動が早くなる。
汗が、吹き出てくる。
違う。
たまたまだ。
自分に言い聞かそうとする。
しかし、賢い脳みそが言う。
たまたま、ピーマンがフードが出てくるようなことなんてあるかい?
そんな奇跡あってたまるか。
僕は反論する。
奇跡はもっと、美しいものである。

ではなぜ、ピーマンが?
考えても分からないことはいくらでもある。
3ヶ月前、同じくフードの中で、潰れていた卵黄。
そして、今日、自転車のかごを埋め尽くしていた蝸牛の殻。
極めつけは、今、フードからこぼれ落ちたピーマンだ。
僕は、悟った。
町ぐるみで僕のことをいじめてる。

夏の無風状態は、どの季節のそれよりも長く感じる。
風を感じたいなら、走れ。
そんな歌があった。
僕は、パーカーを脱ぎ捨て、左足の靴紐はほどけたまま、アパートを飛び出した。
いざ、北九州の実家へ。

母さん、やはり都会は怖い町です。

 

 

「」から始まる短いものがたり
2012.6.21


 


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