「海には行けないの」

 

4 コンブ

その男が入ってきたのは、昼時が過ぎた頃であった。
がらがらと入り口の引き戸が鳴った時、「波野さんかも」と思った俺はすぐに落胆した。
でも、仕事だ。
とりあえず、「いらっしゃいませ」と声を掛けて、男を席に案内した。
ずいぶんとチャラチャラしたやつだ。
遊んでばかりいる阿呆大学生にしか見えないし、多分そうであろう。
腰にぶら下げてる沢山の鍵が歩く度に鳴って、うるさい。
一体、どこにそんなに鍵が必要なのか、甚だ疑問である。
とても大切な自転車に乗っていて、とても沢山の鍵でも付けているのだろうか。
もしそうだとしたら阿呆である。
いや、そうでなくても阿呆にしか見えないが。

 

とりあえず、水とおしぼりとメニューをテーブルに出した。
「注文決まりましたら、呼んでください」
そう言ったが、男は何も言わず食い入るようにメニューを見ていた。
なんだかおかしなやつだ。
阿呆な上におかしいとは、可哀想だ。
俺は、哀れな男に同情しながら厨房の方に戻った。
昼時過ぎだから、主人のマキガイさんは休憩と称したパチンコに行っている。
大体、この時間の厨房は俺に任されていると言うわけだ。
そこで心優しい俺は思った。
阿呆でおかしな哀れ大学生に、俺がやってやれることは少ない。
少ないが、少しでも幸せにしてやろう。
そう、生卵の一つでも無料で付けてやろう。
そう思った。
俺は、なんて良いやつなんだ。

 

しばらく待っても、呼ばれないから様子を見てみると、忙しなくメニューをひっくり返している。
何かを探しているのか?
スタンダードな定食は用意しているはずだが。
まぁ、マキガイさんもいないことだし、多少の我が儘は聞いてやるか。
なんと言っても、彼は哀れだし、俺は優しい。
「何かお探しのものでもあります?」と声を掛けると、男は大袈裟に驚いていた。
やはり、おかしいやつだ。
とりあえず、驚かせたことを謝りつつ、何を探しているのか聞いた。
男は少し間を置いて、言った。
「あー、あの、いつもの裏しょうが焼き定食で」
え?
何言ってんの?
いや、何言ってやがる?
こいつ。
なぜに「裏しょうが焼き定食」の事を知っているんだ?
あれは波野さんにしか出していないメニューで、当然、波野さんしか知らないはず。
なぜ、阿呆でおかしな哀れ大学生が知っている?
まさか。
まさか。
まさか。
な、波野さんと知り合いなのか?
それで、波野さんが教えたのか?
そういう関係なのか?
いや、待てよ。
‥‥全てのものには裏がある。
はっ!!
なんてことだ!
こいつ、阿呆でおかしいという哀れさを利用して、波野さんに同情してもらう感じで、「裏しょうが焼き定食」のことを教えてもらったんだな!
だって、そうでなければ、波野さんが、易々と教えるわけがないもの。
卑劣極まりない男め!

俺がそういう結論に行き着いたとき、男が更に言った。
「いつもの、裏しょうが焼き定食お願いします」
しかも、語気が強めである。
こいつ、まだ言うか!
「‥‥いつもの、だと?」
そう言った俺と目があった男は、誤魔化すように水を飲んだ。
この野郎。
どうやってこらしめてやろうか。
優しい俺は、すぐに閃いた。
そして、笑顔で言うのだった。
「かしこまりました、いつもの、裏しょうが焼き定食ですね?」

 

 

「海には行けないの」-4-
2013.8.15


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海には行けないの 4