「海には行けないの」
5 シジミ
やはり、困ったときに水を飲むのは有効な手段なのかもしれない。
さっきまで怒っていたぽかった店員の男も、俺が水を飲んだ後で「かしこまりました、いつもの、裏しょうが焼き定食ですね?」と潔く言った。
危なかった。
マジで危なかった。
多分、あのタイミングで水を飲まなかったから、一見さんお断りと思われる「裏しょうが焼き定食」の注文を受けてくれなかっただろう。
あぁ、良かった。
これで波野さんと海に行ける。
危うく俺の夏が夏で無くなるところだった。
これを機に「困ったときに水を飲む」という行為は今後の俺の人生で大切にしていこう。
そうだな。
名前の一つでも付けてやるか。
よし。
「困惑の一杯」でどうだろうか。
しばらくすると、あまり広いとは言えない店内に旨そうなしょうが焼きの匂いが漂い始めた。
楽しみだなぁ。
波野さんはいつもそれを食べるって言っていたから、おしいに違いない。
おいしく食べて、卵だけ頂戴して、そして海に行く。
素晴らしい。
素晴らしい夏だ。
にまにまと笑っていると、男が厨房から出てきた。
皿がいくつか乗った盆を両手で持っている。
「お待たせいたしました」
そう言って、男は俺の目の前に盆を置いた。
え?
俺は思わず、横に立つ男の顔を見た。
すると男はにこりとして言った。
「いつもの、裏しょうが焼き定食です」
俺はもう一度、盆に目を落とした。
そこには、裏返ったどんぶりと、裏返った皿と、裏返った小鉢が並んでいた。
お椀はさすがに裏返っていなかったが、蓋は無くて、中には味噌の塊が入っていた。
こ、これが、「裏しょうが焼き定食」なのか?
確かに裏返っているので、「裏しょうが焼き定食」だ。
でも、これを毎回、波野さんが?
嘘だろ?
俺は恐る恐る、裏返ったどんぶりを持ち上げた。
ご飯がぼとりと盆の上に落ちた。
「えー」と言いそうになったが堪えた。
男は未だに横に立っている。
ここで動揺してしまっては、「裏しょうが焼き定食」初体験ということがバレてしまう。
困った。
俺は、はっとした。
こんなときこそ、「困惑の一杯」だ。
困ったときは水を飲めば万事解決!
俺は水を一口飲んだ。
そして、思い付く。
「あれ、卵がないな。確か、生卵付いてくるはずですよね?」
俺は男に話しかける。
男は、一瞬顔を歪めた後で「いや、付いてないですよ」と言った。
そんなわけはない!
もし卵が付いていないなら、俺は波野さんと海へ行けないじゃないか!
それに、波野さんが「卵が付いてくる」と言ったのだ。
彼女が嘘をつくわけがない!
俺はなんだかとても強くなった気になって言った。
「裏しょうが焼き定食から卵を取ったら、一体何が残るって言うんですか!?裏返った皿しか残らないじゃないですか!」
それを聞いた店員の男は、バツの悪そうな顔をして一度厨房に戻ったかと思うと、卵を持ってきて、盆の上に置いた。
「はい、どーぞ。その、裏返ったしょうが焼きに掛けるとおいしいですよ」という捨てぜりふと共に。
もはや俺の勝ちだ。
卵を掴むと、「じゃあ、お会計お願いします」と店員の男に言って席を立った。
「は?」
「いや、だから、お会計」
「注文したもんに手を付けないで帰るなんてあんまりじゃないですか?」
「あ、この卵だけ持って帰りますから」
「うち、テイクアウトはやってませんので、帰るなら卵も置いてってください」
「そ、それはできない!」
「こっちだって、それを容認するわけにはいかない!」
俺たちは睨みあった。
このままでは卵を持ち帰れない可能性がある。
俺は財布から二千円を取り出すと、テーブルに置いた。
店員の男がそれに気を取られている隙に、俺は走って、店を出た。
追ってきている。
確実に、追ってきている。
俺は卵を割らないように優しく持ちながら全力疾走した。
ちらりと後ろを見ると、すごい勢いで店員の男が追ってきている。
こりゃ、捕まるのも時間の問題だ!
愛車を使おう!
俺は同じ商店街にあるバイト先の駐輪場に向かった。
愛車はそこに停めてある。
卒業した大学の先輩から受け継いだ、由緒ある自転車だ。
かつて、かごの中身が何の前触れもなく蝸牛の殻で一杯になったことがあるという伝説の自転車。
その名も、マイツムリ号。
あれに乗って逃げれば、店員の男も追ってこれまい!
ところが、バイト先の駐輪場に着いて俺はびっくり。
びっくりした勢いで卵を潰しそうになる。
無い。
マイツムリ号が無い!
なんてこったい。
こういうときは、水を飲むに限る。
そう思ったが、残念だ。
「困惑の一杯」のための水を持ち合わせていない。
「海には行けないの」-5-
2013.8.16