「海には行けないの」
7 ホタテ
「本の虫、とはよく言ったものだ。本好きの人のことをそんな風に呼ぶなんて、昔の人はセンスがあるよなぁ」と言ったのは、僕じゃない。
僕が小学生の時の担任の先生の台詞だ。
そして、それに関係があるのか無いのかは、誰かの判断に任せたいのだけど、僕はよく「本の虫」と言われる。
彼女と初めて話した時も、そう言われた。
「あなたって本の虫ね、まるで」
「まるで」が付くと、意味が変わらないか?と僕は思った。
「本の虫」という例えに、更に例えの意味の「まるで」を付けるのはおかしいでしょ。
当然、僕はその意見を彼女に言わなかった。
彼女は何も言わない僕に構わず、続けた。
「いつも、この古本屋にいるわよね、あなた」
知り合いでもない僕に気安く話し掛けてくる彼女のことを、少しばかり怪しい人だと警戒していた。
でも、見た目がとても清楚だったから、無視はしなかった。
僕も男と言うわけだ。
とりあえず、読んでいた本を閉じて、彼女の方を見る。
「何かようですか?」というような顔を作った。
「あ、分かった。本の虫じゃなくて、古本屋の虫なのね、あなた」
彼女はそう言って、笑った。
その笑い方はとても可愛くて、僕がそれに恋をしたのは、雨が鬱陶しい6月の終わりだった。
彼女とはその古本屋でしか会わなかった。
僕は大学終わりにいつも、商店街にあるその古本屋に寄って本を読んでいた。
彼女はいつも来るわけじゃない。
僕は本を読みながら彼女を待った。
最近じゃ、彼女を待つために古本屋に行っているようなもんだ。
でも、彼女が来たからと言って、そのあと何か特別なことがあるかと言えばそうじゃない。
だって、僕たちはこの古本屋以外では会わないし、ましてや、僕は、彼女の名前さえ知らない。
彼女が来た日は、少しの会話をしたあとで、並んで本を読むだけだ。
その時、僕は、決まって本に集中できていない。
何度も同じところを読んでしまう。
右隣にいる少し背の低い彼女が気になって仕方がない。
仕舞いには、「そんなに面白いの?そのページ」と彼女に言われてしまう程だった。
そして「さよなら」は、いつも彼女からで、その時が来る度に僕は思うのだった。
「小説にでもなりそうな逢瀬だ」と。
季節は夏になっていた。
その日も同じように、僕は彼女を待っていた。
来るだろうか、それとも来ないだろうか。
待っているときも、本に集中できていないことに気付いた。
それで、苦笑いをした。
やっと本に集中していると、いつの間にか隣に彼女がいる。
いつもそうだ。
「こんにちは。帰ろうと思ったわ、気付いてくれないから」
彼女は悪戯にそう言う。
僕は笑った。
その時ふと気付いた。
彼女が手に持って、開いている本。
写真集だ。
「ねぇ、いつもその、海の写真集を見ているよね?」
「そうね。好きなのよ、海が。」
「そうなんだね」
「そう。だって、名前もナミノって言うのよ、私。名字だけど。だから、可哀想でしょ?海を好きになってあげなきゃ」
「なるほど」
僕は自然に、本当に自然に言った。
「それじゃあ、海に行こうよ。夏だし」
すると彼女は言った。
少しの憂いを顔に浮かべて言った。
「海には行けないの、私」
「え?何で?海が好きなんだろ?」
「その質問に答える前に教えてくれないかしら?あなたの名前」
「あ、ごめん、ホタテと言います」
「そう、ホタテさん、ね」
彼女は一瞬目を伏せてから、また僕を見て言うわけだ。
「ホタテさん、女の子にはあまり多くを聞くものじゃないわ」
「海には行けないの」-7-
2013.8.18