「海には行けないの」

 

9 ホタテ

波野さんが情緒的な「バイバイ」を言ったあと、僕は一人、古本屋へ取り残される。
それはいつものことだ。
いつものことだけど、いつもと違うこともある。
波野さんと、古本屋以外で会うチャンスを得たのだ。
海へ行けるかも知れない。
でも、僕は半信半疑だった。
だからそんなに素直に喜んでいた訳ではない。
その理由は、波野さんが出した、海に行くための条件のせいだ。
僕は波野さんに好意を寄せている。
だから、たいていの条件なら何の疑いもなく、ごくりと飲める。
でも、波野さんのおしとやかな口から語られた条件は、とても不思議なものであった。

 

「この商店街のどこかに、トラネコ皿と言うのがあるのを知っている?ホタテさん」
トラネコ皿?
聞いたこともない。
僕は首を横に振った。
「そう。子供たちはみんな知っているのにね。知らないことが多いわね、大人は」
彼女は僕の横で、海の写真集を胸の前で抱えながら笑った。
それから「じゃあ、ヒントをあげるわ、特別に」と言って、僕に半歩近づいた。
そして、少し背伸びをして、僕の耳の側で言った。
「雷様よ、ヒントは」

 

一体、なんなんだ。
トラネコ皿って。
僕は古本屋を出たあと、商店街を歩いた。
大学に通って3年、この商店街を利用しているけど、そんな皿のことは聞いたことがなかった。
それにヒントの「雷様」というのも全くヒントになっていない。
やはり、からかわれたのだろうか。
いや、波野さんはそんな人ではない気がする。
でも‥‥。
あぁ。
考えていても埒が明かない。
まだ夕方に差し掛かったばかりだ。
とりあえず、騙されたと思って探してみよう。
その、トラネコ皿ってやつを。

 

「子供たちはみんな知っているのにね」
それは、トラネコ皿を知らないと、首を横に振った僕に波野さんが言った台詞だ。
子供はみんな知っている。
僕は商店街を歩く子供たちを見た。
聞いてみるか。
少し気が引ける。
でも、もし、その子供たちがトラネコ皿を知っているとしたら、波野さんは僕をからかった訳ではないということになる。
うん。
聞いてみよう。

 

僕は、通りがかった3人組の男の子に声を掛けた。
多分、小学生だ。
高学年ぽいな。
一人はキャップを被っていて、一人は長身、もう一人は太っていた。
とてもバランスの取れた3人組だ。
「あの、」
僕に声を掛けられた男の子3人は、とても警戒している様子だった。
やはり、止めてしまおうか。
僕は怖じ気づいた。
「まぁ、ものは試しだ」と小学校の時の先生が言っていたことは、今の僕の状況に関係があるのか分からない。
分からないけれど、波野さんのことを信じて、僕は続けた。
「あの、君たち、トラネコ皿って知っているかい?」
子供たちは「は?」という顔をしてから、首を横に振った。
僕はそれを見て、すっぱりと諦めた。
人生は小説のようにはいかないものだ。
「ごめん、気にしないで」
そう言って、立ち去ろうとしたその時、太った少年が言った。
「あ、それって、あれじゃね?」
「あれって何だよ」
キャップを被った少年が僕の気持ちを代弁した。
「あのさぁ、あれ、雷皿のことじゃね?たまに、トラネコ皿って言うやついるよな」
雷!!
波野さんは、ヒントは雷様だと言っていた。
僕は柄にもなく興奮して、太っている少年の肩を掴んで言った。
「それだよ!それ!!」
やはり、波野さんは嘘を付かない。
そして思った。
「何だか、小説にでもなりそうな話の展開だ」と。

 

 

「海には行けないの」-9-
2013.8.20

海には行けないの 9