「海には行けないの」

 

11 シジミ

びくびくしていたが、店員は追って来なかった。
危ねぇー。
マイツムリ号が無くなった今、追われたらしんどかった。
はっ!
卵は!?
右手に持った生卵を見た。
無事だ。
やった!
これで、波野さんと海に行ける!!
ということは、俺の夏はきちんと夏として成り立つ!
自分でも分かるくらい顔が緩みっぱなしだった。
早く、波野さんにこれを渡さなきゃ!
‥‥で、どこで渡せばいいんだっけ?
俺は波野さんと受け渡し場所などの約束をしていない。
生卵だから、あまり長い時間保管していてもダメになる。
早く渡さなきゃ。
だがしかし、俺は波野さんの連絡先や自宅の場所を知らない。
このままでは、渡せずに終わってしまう。
ということは、俺の夏も終わりというわけだ。
…いやいやいやいやいや。
あれだろ?
バイト先で渡せばいい!
うん、そうだよ。
俺と波野さんはバイト先が一緒なんだから!
はは!
何を焦ってんだか。
全くもう。
そして俺は今、丁度バイト先の駐輪場にいるわけだ。
これも運命だ。
俺は浮かれながらバイト先に行った。

 

俺と波野さんはチェーン展開している居酒屋で働いている。
そろそろオープンの時間だ。
従業員控え室に入ると、制服に着替えたバイト仲間が何人かいた。
適当に挨拶を交わしたあとで、シフトを確認。
次に波野さんと会うのはいつだろう。
手に入れたのは生卵だ。
早めに渡さないと、まずい。
ん?
え?
何、これ、どういうことだ?

 

「店長!」
俺はシフトを片手に開店準備をしている店長の元へ走った。
「お、どうしたんだ?今日休みじゃなかった?」
「あ、休みですが、あの、そんなことよりも、波野さんどうかしたんですか?」
「あぁ、波野ね」
「シフトが消されてましたけど」
「辞めたんだよ。本当、今さっきだよ。話があるって言うから面談したんだけど、急で申し訳ないが辞めさせてくれってさ」
「え?辞めたって、え?」
「綺麗だったから、残念だけど、仕方ないよね。無理矢理働いてもらうわけにもいかないしな」

 

俺は、途方に暮れて商店街をふらついていた。
辞めた?
冗談だろ?
この卵、どうやって渡せって言うんだよ。
どうなっているんだ。
俺は商店街を見回した。
どこかに波野さんがいないかな。
このままでは、波野さんと海に行けない。
それどころか、もう、会えない。
会えない!?
俺の青春から波野さんが消えるのか?
青春から美女を取ったら何が残る!
想像するだけでもおぞましい。
意気消沈してため息をついたとき、見覚えのあるものを見た。
あれは。
真面目そうな男が右手にパシフィック・オーのコーヒーカップ、そして左手にそれを持っていた。
黒と黄色のあのしましまの灰皿は‥‥。
「この商店街にトラネコ皿あり!」と言われている、有名なトラネコ皿そのものだ!
一度だけ、SNSで写真を見たことがあったけど、都市伝説だと思っていた。
あいつが持ち主なのか?
それにしても、きょろきょろとしているし、人目を避けようとしている、ような気がする。
挙動が不振だ。
まさか。
まさかあいつ、もしかして!
この商店街からトラネコ皿を盗もうとしているのか?
この商店街からトラネコ皿を取ったら何が残る!
同じ伝説として君臨できるのは、マイツムリ号しか残らない!
しかも、今となってはマイツムリ号も無い。
そういえば、マイツムリ号も探さなきゃならない。
こんなに沢山の問題を抱えたのは、この世に生まれ落ちてから初めてかもしれない。
その時、トラネコ皿を持った男が路地に入っていった。
とりあえず、追いかけることにしたのは、言うまでもない。

 

 

「海には行けないの」-11-
2013.8.22

海には行けないの 11