「僕の町」

 

2

月が出る前に、兄の働く店に行かなくてはならない。
いつもと同じ時間に町のパトロールを終えて、一度家に帰った。
手を洗って、うがいをした。
これを怠ると、兄に怒られる。
やはり僕は怒られるのが嫌いなんだよ、君。

店に行くときの荷物は、いつも決まっている。
いつもの本。
いつものガム。
いつもの定期券。
いつものハンドタオル。
そのどれかが欠けてもいけない。
もし、何かが足りないとしたら、僕はたちまち不安になってイライラしてしまう。
その感情は不思議なことに自分では抑えられない。
君にもそういうときがあるかい?
あるのなら僕は少し嬉しいよ、君。
ぐるぐるキャンディに取り憑かれたママは、僕のそういう所も嫌いだった。
兄はとても優しいから、僕がそうならないように、僕の机の上に全てを用意してくれる。
僕はそれをお気に入りのリュックに詰める。
その時に、パトロールに持って行っていた物と入れ替える。
公園で食べたパンと野菜ジュースのゴミはこのときに捨てる。
それも決まっている。
準備ができると僕は、時間がくるまでボーッとする。
いつもと同じ時間に家を出ないと嫌なんだ。
早すぎても遅すぎても良くない。
ぴったりが一番良い。
タイミングってものはとても大事なんだよ、君。
時間がくると僕はスムーズに家を出る。
兄から貰った、お気に入りの革靴を履いて。
いつものルートで駅まで向かう。
兄の店に行くには、地下鉄に乗らなきゃならい。
本当は乗りたくないけれど、仕方ない。
それが生きているということだ。
そうだろ、君。

 

電車においても、いつもと同じ車両の同じ席に座りたいけれど「そういうわけにいかないんだよ。それが生きるということさ」と兄に言われてから、我慢している。
でも僕は我慢が好きじゃないんだ。
前も言った通りだよ、君。
同じ車両に乗れても、同じ席に座ることは中々むずかしい。
座れないときは、不安になってイライラしそうになるから、僕はリュックから本を取り出す。
僕は本が好きだ。
君はどうだい?
好きなら仲良くなれそうだね、君。

『ノルウェイの森』の主人公が好きな、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が僕のお気に入りだ。
僕は色々な本を読んできたけれど、これが一番面白い。
何でって?
それは『グレート・ギャツビー』ほど、わけの分からない本は無かったからだよ。
わけの分からないものほど、面白いものはない。
君もそう思うだろ?
違うと思うなら僕たちは仲良くなれそうにないね、君。

『グレート・ギャツビー』を読んでいると、わけが分からなすぎてあっという間に時間が過ぎる。
いつの間にか目的の駅に着いた。
時間通りだ。
電車は早すぎても遅すぎてもダメだ。

僕はいつもと同じ降車口から降りる。
改札を出たら兄に電話を掛けることになっているから、掛けた。
兄はすぐに電話に出た。
「もしもし。着いたか。じゃあ、気を付けて来いよ」
それだけ言って、兄は電話を切った。
僕はやっぱり何も言わなかった。
何も言えないのだから当然だ。
そんな僕を、君はやっぱり変だと思うかい?
そう思うのならそれはやっぱり正しいよ、君。

 

僕はいつもと同じルートで兄の働く店に向かった。
君は知らないだろうから教えてあげるよ。
兄の働く店は「LuLu」という、ワインを売りにしたレストラン・バーだ。
だから僕はワインを飲む。
美味しいワインばかりあるんだ。
あ、ワインのことを考えていたら、楽しくなってきた。
叫びたくなる。
あまり叫ぶと兄に注意されるから、我慢しなくちゃならない。
でも、我慢できない。
ママはそのせいでぐるぐるキャンディに取り憑かれた。
僕のせいで、ママは・・・。
不安の暗闇にまっ逆さまに落ちそうだったその時、肩を叩かれた。
びっくりして振り向いた。
その人の顔を見て、僕はさらに楽しい気持ちになった。
僕の肩を叩いたのは、サキタさんだった。
サキタさんは笑顔だった。
「楽しいことでもあったの?」
聞かれた僕は、何度か頷いた。
「一緒に行こうか」
誘われた僕は、何度か頷いた。
僕らは二人で歩いた。

君は知らないだろうから教えてあげるよ。
サキタさんはLuLuでウェイトレスをしていて、兄の恋人で、綺麗な人なんだよ。
分かったかい、君。

 

 

「僕の町」  -2-  2013.1.22


ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

僕の町 2
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