「僕の町」

 

5

その日の朝、兄が「お母さんのところへ行ってくるよ。‥‥一緒に来る?」と言った。
今日は雨だから、パトロールを休んで家にいた。
僕は兄が買ってきてくれた、いつものコンビニのパンと野菜ジュースを胃袋に納めながら、首を横に振った。
「だよね」
兄はそう言って、コートを羽織った。
「じゃ、行ってくるよ。何かあったら連絡して」
兄が出ていったあと、僕はパンと野菜ジュースのゴミをきちんとゴミ箱に捨てた。
食べっ放しにしておくと、帰ってきた兄に怒られるからだ。
僕は怒られるのが好きじゃないんだよ、君。
雨の日はパトロールにも行かないし、LuLuにも行かない。
僕は雨があまり好きじゃないから。
君は雨が好きかい?
好きだとしたら尊敬するよ、君。

 

家にいても、やることはある。
ワインの本を読むんだ。
写真がたくさんのヤツさ。
炬燵に入って、ゴロゴロしながら読む。
僕はたまに「ふむふむ」と頷いてみたりする。
しばらくすれば、ワインが飲みたくなってくる。
でも我慢だよ、君。
昼間からワインを飲むのは良くない。
夜になってから飲まないと、お月さんが悲しむ。
気を付けた方がいいよ、君。

ワインの本を読んでいると、あっという間に時間が経つ。
お腹が空いてきた。
兄はもう帰ってくるだろうか。
特に昼ご飯は用意されていない。
分からない。
分からないと不安になってくる。
不安になるとイライラして叫びたくなる。
そうならないうちに、僕は兄に電話をした。
いい判断だ。
僕は僕に慣れているんだよ、君。

 

電話に出たのは兄ではなかった。
とても低いトーンで「もしもし」と聞こえてきた。
僕は緊張する。
電話に出たのは、ぐるぐるキャンディに取り憑かれたママだった。
「どうしたの。お兄ちゃんは今、トイレよ」
ママはとてもゆっくりとそう言った。
そして急に「もうトイレから帰って来ないかもね」と言って泣き出しそうな声になった。
僕は何も言えないから、ただ耳に携帯電話を当てて、心を緊張させている。
「もう、帰って、来ないかもね」
ママはいよいよ泣き出した。
ぐるぐるキャンディのせいだ。
そればかり食べているからだ。
「ねぇ、あんたが、あんたが、いなくなれば帰ってくるかもよ?お兄ちゃん、そうすれば帰ってくるかもよ?」
ママは泣きながらそう言ったあと、大きな声で「ねぇ!!!聞いているの!?ねぇ、答えなさいよ!!!」と怒鳴った。
僕は何も言えない。
黙っている。
受話器の向こうではママが泣いている。
「お母さん!」
少し離れた所から兄の声が聞こえた。
兄は携帯を取り返したのか「大丈夫か?」と僕に言った。
でも僕は答えられない。
ただ、電話を切れずにいた。
「どこにも行かないで、落ち着いて、ワインの本を読むんだ。いいね。サキちゃんに、そっちに行ってもらうから」
兄はとても冷静そうだけれど、慌てていた。
「僕は大丈夫だ。」
兄にそう伝えたかったけれど僕は喋れないし、電話は切れたんだよ、君。

 

お腹が空いていることがずっと気になっていた。
どうしたらいいだろうか。
台所をうろうろして、冷蔵庫を開けたり閉めたりした。
その間ずっと、「ぐるぐるキャンディのせいだ」という言葉が頭ん中をぐるぐる回っている。
そうしているうちに、サキタさんが慌てて家に入ってきた。
「大丈夫!?」
すごい顔だ。
急いできたのか、髪の毛が雨に濡れてる。
それはそれで美しかったよ、君。
僕は、サキタさんに向けて笑おうとしたけれど、できなかった。
「大丈夫よ」
サキタさんはそう言って、僕を抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫だから」と何度も繰り返していた。
言葉が喋れないのは辛いことだ。
君もそう思わないかい?
僕のために傷付いてくれているサキタさんに「大丈夫さ!僕はお腹が空いているだけだなんだもの!」って冗談っぽく伝えることもできないんだよ、君。

 

僕の町は、僕の嫌いな雨に沈んでいく。
だからか知らないけれど、僕は、サキタさんに抱かれたまま涙を溢したんだよ、君。
そんな僕をサキタさんはギュッと抱くんだ。
悲しそうな声で、「大丈夫」って言いながら。
あぁ、全部、ぐるぐるキャンディのせいだ。

 

 

「僕の町」  -5-  2013.1.25


ぐるぐるキャンディースプーン イエロー

僕の町 5
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